稲山嘉寛(読み)イナヤマ ヨシヒロ

20世紀日本人名事典 「稲山嘉寛」の解説

稲山 嘉寛
イナヤマ ヨシヒロ

昭和期の財界人 経団連名誉会長;新日本製鉄名誉会長;日本科学技術振興財団会長。



生年
明治37(1904)年1月2日

没年
昭和62(1987)年10月9日

出生地
東京・銀座

学歴〔年〕
東京帝国大学経済学部商業学科〔昭和2年〕卒

主な受賞名〔年〕
藍綬褒章〔昭和37年〕,勲一等瑞宝章〔昭和49年〕,勲一等旭日大綬章〔昭和57年〕,ベルギー王冠勲章〔昭和58年〕,マスコミ功労者顕彰〔平成3年〕

経歴
東京・銀座の稲山銀行頭取の次男に生まれ、昭和3年商工省外局の官営八幡製鉄所に入る。9年製鉄大合同後、日本製鉄に勤務。戦後25年の日本製鉄解体で八幡製鉄常務となり、37年社長。45年には永野重雄富士製鉄社長とともに八幡、富士両製鉄所合併を実現させて社長に就任。その後、48年会長、58年相談役・名誉会長となる。この間、経団連、日経連副会長として活躍、55年には経団連会長に就任し、61年までつとめた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「稲山嘉寛」の意味・わかりやすい解説

稲山嘉寛
いなやまよしひろ
(1904―1987)

経営者。東京都生まれ。1927年(昭和2)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、商工省に入り官営八幡(やはた)製鉄所に勤務。同製鉄所は、1934年製鉄大合同で日本製鉄となったが、1950年日本製鉄は解体され、八幡製鉄となった。1961年八幡製鉄副社長、1962年社長に就任。1970年同社が富士製鉄と合併し新日本製鉄が発足すると、その社長となる。1973年同会長。1953年日本鉄鋼輸出組合理事長、1965年日本鉄鋼連盟会長、1968年経済団体連合会(現、日本経済団体連合会)副会長、1980年同会長を歴任。昭和62年10月9日没。

[編集部]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「稲山嘉寛」の解説

稲山嘉寛 いなやま-よしひろ

1904-1987 昭和時代の経営者。
明治37年1月2日生まれ。昭和3年商工省にはいり,官営八幡(やはた)製鉄所(のち日本製鉄)につとめる。25年日本製鉄の分割にともない八幡製鉄の常務となり,37年社長。鉄鋼業界の協調につとめ,45年富士製鉄との対等合併を成立させ,新日本製鉄社長に就任。55年経団連会長。昭和62年10月9日死去。83歳。東京出身。東京帝大卒。
格言など】己の分を知っている人は,人の信頼も得られ,社会の中で重くなっていく(組織なかでのあり方について)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲山嘉寛」の意味・わかりやすい解説

稲山嘉寛
いなやまよしひろ

[生]1904.1.2. 東京
[没]1987.10.9. 東京
経営者,財界人。東京大学を卒業し八幡製鉄所に勤める。 1962年八幡製鉄社長。 68年永野重雄富士製鉄社長とともに,二大製鉄大合併の構想を打出し,70年新日本製鐵発足に漕ぎつけ,初代社長となった。 73年会長。「鉄は国家なり」を地でゆく高度経済成長日本の推進力的存在であった。 80年5月土光敏夫の跡を襲い第5代の経団連会長となり,86年5月同名誉会長となった。

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367日誕生日大事典 「稲山嘉寛」の解説

稲山 嘉寛 (いなやま よしひろ)

生年月日:1904年1月2日
昭和時代の実業家。新日本製社長;経団連会長
1987年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の稲山嘉寛の言及

【経済団体連合会】より

…1968‐74),土光敏夫(元,石川島播磨重工業社長。1974‐80),稲山嘉寛(元,新日本製鉄社長。1980‐86),斎藤英四郎(元,新日本製鉄社長。…

※「稲山嘉寛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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