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加賀藩第5代藩主。幼名犬千代、初名綱利(つなとし)。1645年(正保2)父4代光高(みつたか)の急死により、3歳にして家督を相続。祖父利常(としつね)(3代藩主)の後見を、利常の死後は夫人の父保科正之(ほしなまさゆき)の後見を受けた。利常は改作法と称する農政大改革を施行し、綱紀はそれを継承・整備して藩政を確立した。新田開発の推進、非人小屋の創設、職制の改正など、目覚ましい治績を残したが、学者文人の招聘(しょうへい)、図書の収集・刊行の奨励、演芸・美術工芸の振興など、元禄(げんろく)・正徳(しょうとく)期(1688~1716)のいわゆる文治主義に対応して、すばらしい成果をあげた。1723年(享保8)81歳をもって退老、翌年5月9日、江戸邸にて病死した。その諡(おくりな)によって「松雲公」と称し、この時代を藩政の最盛期とする。しかし、次の吉徳(よしのり)の停滞期に入ると、緊縮政治が要請され、いわゆる加賀騒動が誘発されたのである。
[若林喜三郎]
『若林喜三郎著『前田綱紀』(1961・吉川弘文館)』
加賀藩5代藩主。幼名犬千代。1645年(正保2)3歳で襲封,54年(承応3)正四位権少将兼加賀守,58年(万治1)権中将となり,84年(貞享1)綱紀と改める。93年(元禄6)参議,1706年(宝永3)従三位となり,23年(享保8)隠居し,肥前守と改めた。その治政は79年に及び,藩制確立期にあたって番方・役方の職制を整え,農商政策では改作法の祖法化,1683年(天和3)の問屋立て,93年の切高仕法などを行い,また盗賊改方,藩営の〈非人小屋(御救小屋)〉の設置など治安救恤(きゆうじゆつ)にも意を用いて,名君とうたわれた。趣味は文事の諸方面にわたり,とくに書物奉行を置いて古今の書を捜求した。《東寺百合文書》,三条西家蔵書の整理などもその一環である。また木下順庵,室鳩巣,稲生若水らの学者・文人を招禄し,みずからも《桑華字苑》《秘笈叢書》などを編纂した。金沢城内に細工所を設けて工芸に励ませ,能は宝生流を招いた。法号松雲院。
執筆者:高沢 裕一
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1643.11.16~1724.5.9
江戸前期の大名。加賀国金沢藩主。光高の長男。1645年(正保2)3歳で家督相続し藩主となる。祖父利常,舅保科正之の後見をうける。61年(寛文元)金沢へはじめて入国。藩政では利常の改作仕法を引き継ぐとともに,十村(とむら)制度の整備,切高仕法の導入などを行った。好学の大名として知られ,木下順庵・室鳩巣(むろきゅうそう)・稲生若水(いのうじゃくすい)ら多くの学者を招くとともに,書物の収集,東寺・三条西家などの古文書の整理・補修を行った。
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