デジタル大辞泉
「前田綱紀」の意味・読み・例文・類語
まえだ‐つなのり〔まへだ‐〕【前田綱紀】
[1643~1724]江戸前期の大名。加賀藩第5代藩主。幼名、犬千代。藩政改革に尽力。また、学を好み、木下順庵を招き、図書の収集・保存・編纂にも努めて尊経閣文庫の基礎を築いた。
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まえだ‐つなのり【前田綱紀】
- 江戸初期の大名。加賀藩の第五代藩主。幼名犬千代、元服後綱利、のち綱紀。父光高の死により三歳で襲封した。藩政・民政の整備に努める一方、木下順庵を招き和漢古典の収集保存、編纂事業を行ない、前田家尊経閣文庫の基礎を築いた。加賀藩中興の英主と称された。寛永二〇~享保九年(一六四三‐一七二四)
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前田綱紀
没年:享保9.5.9(1724.6.29)
生年:寛永20.11.16(1643.12.26)
江戸時代の外様大名。加賀(金沢)藩第5代藩主。4代藩主前田光高の長男。母は徳川家光養女阿智姫(水戸徳川頼房の娘)。正保2(1645)年父の急死により3歳で襲封したが,幼少ゆえ祖父で隠居の前田利常が後見した。その治政は79年にわたるが,初期は後見の前田利常が親裁して,慶安4(1651)年から加賀藩農政の基本政策となる改作仕法を実施し,明暦2(1656)年に一部を除き完成させた。これにより一村の税率を固定し,定免化させて藩財政を安定させた。また厳しい検地により隠田摘発の徹底や新田開発により年貢の大幅増徴を図った。さらに家臣の地方知行制を廃止し,兵農分離を貫徹させる一方,十村制度を強化し,農民支配の末端組織を確立している。 万治1(1658)年以降綱紀の親政となり,元禄6(1693)年には農民の田畑の売買を容認する切高仕法を実施するなど農政の確立に意を用いている。藩の職制の面では寛文9(1669)年には若年寄を設け,上意下達の任に当てる一方,譜代門閥重臣層の権勢をそぎ,貞享3(1686)年には藩政組織の改革を行い,藩政の最高執政機関を年寄,家老,若年寄で構成する体制とし,次いで元禄3年には年寄役八家の制の確立や奥小姓組,足軽,小者に至るまで再編成をしている。軍制面でも七手組の制を確立させ,年寄7人を各組の侍大将に据えている。このような藩政の確立への努力とともに綱紀は対幕府関係も良くしており,万治1年には明暦の大火後の江戸城天守台石垣の造営,元禄5年から8年まで飛騨高山藩金森氏改易により高山城在番を勤めたり,享保7(1722)年より能登国内の幕府領1万石を預地として支配した。この結果元禄2年以後,五節の佳事には御三家並に江戸城白書院で将軍に謁見できる待遇を得た。また学問を好み古文書,古書の収集を行い,自らも『桑華字苑』『古蹟文徴』などを著している。
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前田綱紀
まえだつなのり
(1643―1724)
加賀藩第5代藩主。幼名犬千代、初名綱利(つなとし)。1645年(正保2)父4代光高(みつたか)の急死により、3歳にして家督を相続。祖父利常(としつね)(3代藩主)の後見を、利常の死後は夫人の父保科正之(ほしなまさゆき)の後見を受けた。利常は改作法と称する農政大改革を施行し、綱紀はそれを継承・整備して藩政を確立した。新田開発の推進、非人小屋の創設、職制の改正など、目覚ましい治績を残したが、学者文人の招聘(しょうへい)、図書の収集・刊行の奨励、演芸・美術工芸の振興など、元禄(げんろく)・正徳(しょうとく)期(1688~1716)のいわゆる文治主義に対応して、すばらしい成果をあげた。1723年(享保8)81歳をもって退老、翌年5月9日、江戸邸にて病死した。その諡(おくりな)によって「松雲公」と称し、この時代を藩政の最盛期とする。しかし、次の吉徳(よしのり)の停滞期に入ると、緊縮政治が要請され、いわゆる加賀騒動が誘発されたのである。
[若林喜三郎]
『若林喜三郎著『前田綱紀』(1961・吉川弘文館)』
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前田綱紀 (まえだつなのり)
生没年:1643-1724(寛永20-享保9)
加賀藩5代藩主。幼名犬千代。1645年(正保2)3歳で襲封,54年(承応3)正四位権少将兼加賀守,58年(万治1)権中将となり,84年(貞享1)綱紀と改める。93年(元禄6)参議,1706年(宝永3)従三位となり,23年(享保8)隠居し,肥前守と改めた。その治政は79年に及び,藩制確立期にあたって番方・役方の職制を整え,農商政策では改作法の祖法化,1683年(天和3)の問屋立て,93年の切高仕法などを行い,また盗賊改方,藩営の〈非人小屋(御救小屋)〉の設置など治安救恤(きゆうじゆつ)にも意を用いて,名君とうたわれた。趣味は文事の諸方面にわたり,とくに書物奉行を置いて古今の書を捜求した。《東寺百合文書》,三条西家蔵書の整理などもその一環である。また木下順庵,室鳩巣,稲生若水らの学者・文人を招禄し,みずからも《桑華字苑》《秘笈叢書》などを編纂した。金沢城内に細工所を設けて工芸に励ませ,能は宝生流を招いた。法号松雲院。
執筆者:高沢 裕一
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前田綱紀
まえだつなのり
[生]寛永20(1643).11.16. 江戸
[没]享保9(1724).5.9. 江戸
江戸時代中期の加賀藩五代藩主。光高の子。母は水戸中納言頼房の娘。幼名は犬千代。初め綱利と称した。号は顧軒,梅 墩,香雪,松雲軒。正保2 (1645) 年光高没後3歳で襲封。祖父利常の後見,のちは岳父保科正之の援助によって藩政にあたった。改作法と呼ぶ農政の確立,防火制度,城下町の市政など,藩政,民政全般にわたる成果をあげた。しかし,他方では財政に苦しみ,藩の借銀がふえたりした。また学問を好み,林鳳岡,室鳩巣,木下順庵とも交わり,古文書の収集保存にも深い関心を寄せた。その蔵書によって尊経閣文庫の基をつくり,東寺伝来の古文書『百合文書 (ひゃくごうもんじょ) 』の保存に尽力した。
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前田綱紀 まえだ-つなのり
1643-1724 江戸時代前期-中期の大名。
寛永20年11月16日生まれ。前田光高(みつたか)の長男。正保(しょうほ)2年3歳で加賀金沢藩主前田家5代となる。はじめ祖父利常(としつね)が後見。改作法(農政改革)や藩職制・軍制などの諸制度を整備,また加賀象眼・蒔絵(まきえ)などの産業を振興。木下順庵,稲生若水(いのう-じゃくすい)らを招致し,和漢古典の収集につとめ,「歴代叢書」「庶物類纂」などを刊行。享保(きょうほう)9年5月9日死去。82歳。初名は綱利(つなとし)。号は顧軒,松雲など。
【格言など】国の安危は,政(まつりごと)の得失にあり。山河の険,恃(たの)むに足らず(黒部川架橋に,家臣が国の要害を失うと反対したことに対して)
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前田綱紀
まえだつなのり
1643.11.16~1724.5.9
江戸前期の大名。加賀国金沢藩主。光高の長男。1645年(正保2)3歳で家督相続し藩主となる。祖父利常,舅保科正之の後見をうける。61年(寛文元)金沢へはじめて入国。藩政では利常の改作仕法を引き継ぐとともに,十村(とむら)制度の整備,切高仕法の導入などを行った。好学の大名として知られ,木下順庵・室鳩巣(むろきゅうそう)・稲生若水(いのうじゃくすい)ら多くの学者を招くとともに,書物の収集,東寺・三条西家などの古文書の整理・補修を行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
前田綱紀
まえだつなのり
1643〜1724
江戸中期の加賀(石川県)藩主
1645年,3歳で家督を継いだ。義父の会津藩主保科正之の援助を得て改作法の実施・貧民救済などを行い,民政に尽力し「中興の英主」といわれた。また学問を奨励し,木下順庵・室鳩巣 (むろきゆうそう) らを招き,古書・古文書の収集保存・刊行を行い,学問の発達にも貢献。名君の一人として有名。
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前田綱紀 (まえだつなのり)
生年月日:1643年11月16日
江戸時代前期;中期の大名
1724年没
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