竹ヶ鼻村(読み)たけがはなむら

日本歴史地名大系 「竹ヶ鼻村」の解説

竹ヶ鼻村
たけがはなむら

[現在地名]羽島市竹鼻町たけはなちよう竹鼻町錦町たけはなちようにしきまち竹鼻町西野町たけはなちようにしのまち竹鼻町丸の内たけはなちようまるのうち竹鼻町宮町たけはなちようみやまち竹鼻町神楽たけはなちようかぐら竹鼻町狐穴たけはなちようきつねあななど

現羽島市の中心地を占めていた桑原くわばら輪中内の村。竹鼻とも記し、在郷町として竹ヶ鼻町とよばれることもあった。北・西・南の三方は羽柴秀吉竹鼻たけがはな城を攻めたときに築いた一夜堤に囲まれ、東は木曾川から分流して北西へ流れるぎやく川に限られる。「濃州徇行記」に「此村は逆川の西岸へ付、堤傍にある村也、南北へ長くして村中に町並あり」とみえる。竹鼻城の城下として町場が形成されたことに端を発し、江戸時代には陸上交通の要衝であることに加え、逆川舟運も発達して近郷の物資集散地になった。なお逆川東岸に当村支配の田地「百石分」があり、狐穴村から出作していた(→狐穴村

永正一二年(一五一五)一二月日の真如堂領目録(真正極楽寺文書)に「尾張国竹鼻和并小熊本郷」とみえる「竹鼻和」は当地のことと考えられる。この両所の地頭職は建長六年(一二五四)九月二六日に「源氏上総介長氏二女」が真如しんによ(現京都市左京区真正極楽寺)に寄進したとある。観応元年(一三五〇)三月二四日には源某が京都清水寺観音に「尾張国竹鼻和郷内検杖入道名并平内入道名等」を寄進している(「源某寄進状」柳沢保氏所蔵文書)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」によれば「竹鼻和郷」は小熊おぐま保とともに飛鳥井家領として二貫五五八文を負担している。天正一二年(一五八四)の小牧・長久手の戦の頃は竹鼻城には織田信雄・徳川家康方の不破源六広綱が居城していたが、この合戦で落城、不破氏の所領は没収されて、同一三年一一月三日伊木忠次に宛行われた。このときの羽柴秀吉判物(伊木文書)には「不破源六分竹鼻近辺所々、都合六千八拾三貫文但此内五百貫土手ニ引之」とある。なおこの前年の六月、秀吉は「尾州竹鼻惣町中」に宛てた禁制(円覚寺蔵)を下しており、町場形成が確認できる。同一七年一一月一四日の浅野長政・石田三成連署所領充行目録(伊木文書)によれば、伊木忠次は「竹かはな」の八四八石余を含めた五千石を宛行われている。

慶長郷帳では尾張国羽栗はぐり郡所属となっており、高は八九一石余。慶長一七年(一六一二)それまでの幕府領から尾張藩領となり(明暦覚書)、以後、一時期を除いて同藩領で幕末に至る。正保郷帳では美濃国羽栗郡に属しており、田方五八三石余・畑方三六六石余・桑木高五斗余、ほかに新開高六二石余、うち田方四七石余・畑方一五石余。

竹ヶ鼻村
たけがはなむら

[現在地名]伊勢市竹ヶ鼻町

神社かみやしろ村の南にある。「神宮雑書」や「神鳳鈔」にはみえないが、天保一一年(一八四〇)御巫清直が写した「神領記」(神宮文庫蔵)に「竹鼻御厨 一貫五百」とある。近世も伊勢神宮領で山田付属の村であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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