竹崎村(読み)たけざきむら

日本歴史地名大系 「竹崎村」の解説

竹崎村
たけざきむら

[現在地名]松橋町竹崎

北は内田うちだ村・豊福とよふく村、西は中間なかま村、南は北小野きたおの(現小川町)、東は下郷しもごう(現豊野村)に接する。東西に長い帯状の形で、地形的に東部が高く、丘陵台地が西方に延びる。現在、村の西部は沖積平野や干拓平野が開けるが、干拓地が形成される近世までは丘陵台地が八代海へと突出し、台地の下を薩摩街道が通っていた。街道西側の地域には浜田はまだまん新開しんびらき沖開おきひらきなどの字名(郡村誌)を検出できる。字年の神としのかみには巨石横穴形の年の神古墳がある。竹崎季長の本貫地とされているが、鎌倉期に関する文献史料(金石文を含む)はない。明応八年(一四九九)菊池氏が相良氏を追落し、名和氏を豊福城に入城させた時、「殊為向陣、竹崎向上寺之尾被候之処、終被詰壊候之条、求麻芦北八代衆多人数討死候」(天文五年一一月二二日「沙弥洞然(相良長国)長状写」相良家文書)とある。


竹崎村
たけざきむら

[現在地名]横田町竹崎

大呂おおろ村の東、船通せんつう(一一四二・五メートル)から西流する斐伊川上流域両岸山裾に位置し、支流追谷おいだに川・山郡やまごおり川が北流して西方で斐伊川に合流する。川の両岸に耕地が階段状に造成されている。中心部はかなり開けており、標高約四一〇メートル。斐伊川沿いを万才ばんじよう(万歳)峠を越えて伯耆国上阿毘縁かみあびれ(現鳥取県日南町)に通ずる道が通り、日向側ひながわには竹崎番所がある(郷方古今覚書)。天文元年(一五三二)二月三日の石原義扶・成田秀久連署書状(杠家文書)に「大催抱分中村之内火口・竹崎村之内一所」とみえる。大永古記録(岩屋寺文書)によると、天文一二年から横田庄尼子晴久の支配下に入り、竹崎には代官「河本殿」が置かれた。


竹崎村
たけざきむら

[現在地名]白水村両併りようへい

阿蘇外輪山の一つ高千穂野たかじようやの北麓にあり、東は市下いちした村、西は吉田よしだ村、北は白川しらかわ村、南は二子石ふたごいし(現久木野村)に接する。中世には阿蘇社領南郷に属し、正平七年(一三五二)二月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇家文書)に、南四宮の「裏之分」の上葺を担当する在所の一つとしてみえ、その後も阿蘇社の造営などに際して各種の役を負担している。また西巌殿さいがんでん寺への大般若経供米を納入する在所に定められ、応永一二年(一四〇五)一二月一三日の大江政家大般若米送文案(西巌殿寺文書)によると、負担分は七斗であったが、「去大水之時、田地流失」のため検見が行われ一斗六升とされている。


竹崎村
たけざきむら

[現在地名]太良町大字大浦おおうら字竹崎

竹崎村とは竹崎島全体のことで、小字として、夜灯やとう岩船いわぶね中島なかしま城内しろうち早泊はやどまり・竹崎・堂の後どうのうしろ宮の後ぐうのうしろ西泊にしどまり鹿山しかやま炉尻ろじり布川ぬのがわ千角崎ちかどさきの一三があげられる(藤津郡村誌)。正保絵図に村名がみえる。

竹崎島は現佐賀県の西南部、長崎県境に近く位置し、有明海に突き出した周囲約四キロ、標高五〇メートルたらずの火山性の島で、小さな橋によって陸と結ばれている陸繋島である。離島と同じ状態が長く続いていたため、文化の袋小路のようなもので、通婚圏も明治年間(一八六八―一九一二)までは島内に限られていた。


竹崎村
たけざきむら

[現在地名]天水町竹崎

西南境を尾田おた川が西流し、東は野辺田のべた村、北は伊倉南方いくらみなみがた(現玉名市)、南は部田見へたみ村と接する。慶長九年(一六〇四)二月の検地帳によると田四四町三反六畝余・畠一五町一反五畝余・屋敷三二筆三町三反四畝余、分米六八二石五斗、家数八四・人数一〇一、牛馬一四、下ケ名にはしや免・まんところなどがある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では家数一三九・人数二三五、牛馬三一。近世は小田手永に属する。前掲検地帳に「伊倉之内」、元禄国絵図には「伊倉南方之内」とあり、もとは伊倉南方村に含まれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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