出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
竹本 春太夫(7代目)
タケモト ハルタユウ
- 職業
- 人形浄瑠璃太夫
- 別名
- 前名=鶴沢 叶吉,竹本 叶太夫(初代)
- 生年月日
- 明治6年 4月5日
- 出生地
- 香川県 丸亀
- 経歴
- 明治19年2代目鶴沢叶の門人となり叶吉と名乗る。のち25年2代目竹本越路太夫門下で初代竹本叶太夫と改名。昭和2年退座。16年復座して7代目春太夫を襲名。また、大正12年に刊行された太夫・三味線方の肖像・略歴を集めた「此君帳」の編者でもある。
- 没年月日
- 昭和18年 1月11日 (1943年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
竹本春太夫(初代)
没年:天明4.3.19(1784.5.8)
生年:生年不詳
江戸中期の義太夫節の太夫。泉州堺(堺市)の人で,通称粉屋与兵衛。竹本大和掾の門弟。初めは豊竹姓で,延享1(1744)年に人形浄瑠璃豊竹座出座。寛延年間(1748~51)には竹本座に転じる。江戸に下ったこともある。宝暦2(1752)年,帰坂して竹本姓で竹本座に出勤。明和8(1771)年の「妹背山婦女庭訓」の「妹山の段」の掛合,「金殿の段」で大当たり。安永7(1778)年に引退。師の芸風を受け継ぎ,「いつきいてもはんなりとした蘭奢待」(『闇の礫』)といわれ,美声で色の語り分けや運びに特色を示し,上記の「妹山の段」と「金殿の段」に今もその芸風が伝わる。
竹本春太夫(5代)
没年:明治10.7.25(1877)
生年:文化5(1808)
幕末明治期の義太夫節の太夫。本名長原弥三郎。泉州堺の生まれ。4代目竹本氏太夫の門弟。初名さの太夫,のち文字太夫。天保13(1842)年4代目春太夫の養子となって5代目を相続,「摂州合邦辻」の「合邦庵室の段」で披露した。明治5(1872)年文楽座が博労町から松島へ移転したとき,4代目紋下となる。天性の美音で硬軟強弱を自由自在に語り,古流浄瑠璃最後の名人といわれた。門下から巣立ったのが,明治浄瑠璃界の双璧とうたわれた竹本摂津大掾と竹本大隅太夫。<参考文献>郭外「竹本春太夫」(『小天地』1903年1月号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
竹本春太夫(5代) たけもと-はるたゆう
1808-1877 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文化5年生まれ。義太夫節。4代竹本氏太夫の弟子で,さの太夫を名のり,天保(てんぽう)5年江戸にいき,文字太夫と改名。13年大坂にもどって4代春太夫の養子となり,14年5代を襲名した。明治5年文楽座の櫓下(やぐらした)となった。明治10年2月15日死去。70歳。和泉(いずみ)(大阪府)出身。本名は長原弥三郎。
竹本春太夫(初代) たけもと-はるたゆう
?-1784 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。竹本大和掾(やまとのじょう)の弟子で,はじめ豊竹春太夫の名で豊竹座に出演。江戸で修業し,宝暦2年から竹本座に出演,竹本に改姓した。美声で優美な語り口は春太夫風といわれた。天明4年3月19日死去。和泉(いずみ)(大阪府)出身。通称は粉屋与兵衛。
竹本春太夫(4代) たけもと-はるたゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。3代の弟子で,文政のころ4代を襲名したが,病弱で一時3代竹本咲太夫門下の八十太夫に春太夫の名をかしあたえる。文政13年(1830)八十太夫が没したため,ふたたび春太夫を名のった。通称は又兵衛。
竹本春太夫(3代) たけもと-はるたゆう
?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。初代豊竹岡太夫の門人で,豊竹町太夫を名のって豊竹座に初出演。寛政2年(1790)3代を襲名した。かたりながら鼻をなでる癖があり,「鼠の春太夫」とあだ名された。
竹本春太夫(2代) たけもと-はるたゆう
?-1790 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節。初代の弟子で,前名は律太夫。天明2年(1782)2代を襲名した。寛政2年4月29日死去。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の竹本春太夫の言及
【竹本摂津大掾】より
…5歳のとき大工の棟梁二見伊八の養子となり,亀次郎と名乗る。11歳から3世[鶴沢清七]について三味線を習い,1858年(安政5),5世竹本春太夫に入門して竹本南部太夫となる。60年(万延1)には3世野沢吉兵衛と江戸へ下り,2世[竹本越路太夫]を相続。…
※「竹本春太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」