笠木村
かさぎむら
[現在地名]大垣市笠木町
杭瀬川左岸に位置し、中世には西の不破郡笠毛村のうちであったが、享禄三年(一五三〇)の杭瀬川流路の変動で安八郡に属するようになったという。南東は笠縫村。枝郷池田がある。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)にみえる「がまノ内笠毛方」は当地とされる。江戸時代を通じて大垣藩領。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]九度山町笠木
紀ノ川支流で、北流する不動谷川流域にある山村。北は上古沢村、上流は細川村(現高野町)。「続風土記」は「細川荘西村の北十町許山の八分目にあり、甚嶮岨にて寸地の平田なし」と記す。小名に新出がある。
古くは高野山領六箇七郷の一つ古佐布郷に含まれた地と思われる。高野山政所のあった慈尊院より高野山へ至る古い参詣道も、また天野社(現かつらぎ町の丹生都比売神社)経由で高野山へ登る道もともに当地を通った。高野政所より高野山へ登った白河上皇一行は、「白河上皇高野御幸記」寛治二年(一〇八八)二月二五日条によると「申剋、御笠木坂此処去中院九十三町、自政所中分立二間一面屋一宇南面、葺長檜皮、置瓦木、三面以檜納代蔀之、以同助成為天井、南面懸翠簾為御所」とある。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]滑川市笠木
早月川が形成した新扇状地の末端部に位置し、西は浜四ッ屋村、北は富山湾に臨む。南端を北陸街道が通る。村名の由来は南北朝期、山城国笠置(現京都府笠置町)からの落武者が当地に来住したことにちなむといわれ、この家は江戸後期に断絶したと伝える(早月加積郷土誌)。正保郷帳では高一六六石余、田方一〇町七反余・畑方四反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二五二石、免五ツ、小物成は鮎川役二匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は伊右衛門、家数一四(百姓一三・頭振一)。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]藍住町笠木
住吉村の北の平坦地にある。北と西は矢上村。戦国期に三好氏被官笠木(笠置)氏が居住したことが地名の由来と伝える。村名は笠置とも記される(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に笠木とみえ、一九三石余が井関喜左衛門知行分。同帳の注記によれば慶長三年五月二二日、この井関分と百姓三人は蜂須賀彦次郎に加増分として与えられている。正保国絵図でも高一九三石余、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳によればこの高はすべて畠方であった。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高は四石余で、村の大部分は給地になっていたとみられる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二五六石余。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]新潟市笠木
西川右岸に立地し、南は大友村、東は沼沢地の田潟が広がる。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録では高二〇四石六斗余。天保郷帳では高六八四石二斗と増加しているが、周辺の沼沢地を開拓していったものと思われる。文政三年(一八二〇)の新川開削により開拓され、同七年長岡藩の検地を受けた一七新田の一つに当村の村請があり、天保郷帳に高三三石余と記される。明治一〇年(一八七七)当村に合併した。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]黒滝村大字笠木
笠木川発源地域を占める渓谷の村。文禄五年(一五九六)の竹役催課状(楠山家文書)には「クロタキカウノ内カサキ」とある。黒滝郷のうち。慶長郷帳では村高一〇五・三六九石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一六九・八六五石となった。小字大輪の八幡神社拝殿内御供槽には文久三年(一八六三)、元治元年(一八六四)の墨書がある。
笠木村
かさぎむら
[現在地名]多気町笠木
森ノ庄村の北にあり、東を外城田川が北東に流れている。「倭姫命世記」は「其の処従り幸行する時に、御笠服給ひき。其の処を加佐伎と号ひき」と記している。「神鳳鈔」に「笠服庄」がみえる。「五鈴遺響」には「属邑森出アリ、笠木ノ旧名笠服トス、今転シテ笠木ニ作レリ」と記される。慶安郷帳(明大刑博蔵)に「笠木村」と記され、村高のうち田方が約七割。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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