江戸時代の東海道小田原宿より箱根宿を経て
箱根八里の整備は、東海道に一里塚が築かれた慶長九年(一六〇四)頃から始まったらしい。後年の記録ながら小田原宿より箱根宿に至る一里塚は、風祭村内木立榎、湯本茶屋内木立榎、畑宿内木立右樅・左槻、箱根宿内木立まゆみの四ヵ所であった(東海道宿村大概帳)。「徳川実紀」慶長一九年九月一一日条に「このころ箱根路の往還を停廃し、足柄路を通行せしむ」とあり、まだ官道にはなっておらず、箱根路が正式に利用されるのは元和四年(一六一八)幕府が小田原と三島両宿から五〇戸ずつを移し、箱根八里の中間地点に箱根宿を設け、夫食三〇〇俵を与えてからである(風土記稿)。翌五年には宿の東側に江戸防衛のために箱根関所が設置された(「箱根御関所定番人并人見女取扱」東海道箱根宿関所史料集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…標高849m。近世,東海道一の難所であった小田原~三島間の箱根八里の中でも,畑宿(はたじゆく)から箱根峠へ至る上りが最大の難所として知られた。明治以降,箱根八里が利用されなくなって峠は一時さびれたが,明治末に宮ノ下~箱根間の国道1号線,第2次大戦後,箱根新道,芦ノ湖スカイライン,伊豆スカイライン(十国道路)が通じ,交通の要地となった。…
…小長久子編《滝廉太郎全曲集 作品と解説》(1969)は,歌曲および唱歌43曲とピアノ曲2曲を収録。彼の代表作《四季》(武島羽衣作詞《花》を含む),《箱根八里》(鳥井忱作詞),《荒城の月》(土井晩翠作詞,のちにピアノ伴奏部を山田耕筰が作曲),《メヌエット》(ピアノ曲)は,ドイツ留学前の2年間に集中的に作曲されている。唱歌は東くめ作詞によるものが多い。…
※「箱根八里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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