大正・昭和期の舞台美術家
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舞台美術家。東京・神田生まれ。東京美術学校洋画科卒業。在学中より土方与志(ひじかたよし)模型舞台研究所同人となり、1925年(大正14)の『ジュリアス・シーザー』以後、築地小劇場を本拠地に『役(えん)の行者』『大寺(おおでら)学校』など多くの舞台美術を担当し、黎明(れいめい)期の新劇界に貢献。とくに新劇の分野で代表作『夜明け前』など、写実主義的手法により舞台装置を確立した。昭和初期から商業演劇にも進出、歌舞伎(かぶき)、新派、オペラ、映画などあらゆる領域に膨大な製作記録を残している。第二次世界大戦後、俳優座の創立に参加、64年(昭和39)芸術院会員となる。主著に『舞台装置の研究』『舞台装置の三十年』『舞台美術』などがある。兄は舞踊家伊藤道郎(みちお)、弟は演出家千田是也(これや)。
[大木 靖]
『『舞台美術』(1963・朝日新聞社)』
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…また,ソウル・バスによるタイトル・デザイン,オート・クチュールの衣装デザイナーの協力などをどう位置づけるかもきわめて微妙であるが,映画美術の定義は現状では〈プロダクション・デザイナー〉,または〈美術監督〉としてクレジットされた者たちの仕事という範囲にとどまっている。日本映画においては〈美術監督〉という呼称すら定まっておらず,これまで〈美術監督〉の名で呼ばれたのは溝口健二監督《西鶴一代女》(1952)における水谷浩,同《雨月物語》(1953)における伊藤熹朔,大島渚監督《儀式》(1971),《戦場のメリークリスマス》(1983)における戸田重昌くらいである。さらに映画美術の具体的内容は時代や撮影システムによって著しく異なっており,現在でも《スター・ウォーズ》(1977)のプロダクション・デザイナーのノーマン・レイノルズと,《終電車》(1980)の美術監督コユト・ツベルコの仕事を同一の水準で論ずることは不可能である。…
… 日本では文楽がながく興行資本の下におかれていたため,マリオネットの実験的な試みは1920年代にやっと起こった。21年(大正10)に土方与志(ひじかたよし)舞台装置研究所で装置家伊藤熹朔(きさく)が弟の演出家千田是也と協力して人形劇に手をそめ,29年には川尻東次が人形クラブを創立した。この劇団は川尻泰司が受けついで,人形劇団プークとして今日にいたっている。…
※「伊藤熹朔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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