紙パルプ工業(読み)かみぱるぷこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紙パルプ工業
かみぱるぷこうぎょう

木材からパルプを生産するパルプ工業と、パルプからを生産する製紙工業を一括して紙パルプ工業とよぶ。わが国の場合、パルプは1981年(昭和56)現在97%が製紙用に、わずかに3%が溶解パルプとよばれる化繊用に消費されるため、パルプ工業は製紙工業の原料供給部門とみなしてよく、事実、大手企業ではパルプから紙まで一貫生産している場合が多い。[殿村晋一]

世界の紙パルプ工業

製紙業が近代産業として発展する契機となったのは、フランスのロベールNicolas-Louis Robert(1761―1828)が1799年に発明した紙すき機(現在の長網抄紙機と同じ原理の機械)と、ドイツのケラーFriedrich G. Keller(1816―95)が1840年に開発した砕木パルプ法である。ついで1851年ソーダ法、67年亜硫酸(サルファイト)法、84年クラフト法が開発され、パルプ製造を基盤とする近代的製紙工業が確立し、増大する紙需要に促され、大量生産段階に移行した。さらに、19世紀末から20世紀の20年代末にかけて開発されたセルロイド、人絹、セロファン、スフの原料としてパルプが使用されるに及んで、パルプには溶解用パルプとして新たな用途が開かれることとなった。
 1983年の世界のパルプ生産量は約1億3112万トンで、国別では、アメリカが4766万トン、カナダが1922万トン、日本が886万トン、スウェーデンが867万トン、旧ソ連が791万トンで、この5か国で世界の生産量の約70%を占めていた。紙の生産量は約1億7728万トンで、アメリカ5885万トン、日本が1844万トン、カナダが1335万トン、旧ソ連が956万トン、旧西ドイツが827万トンで、この5か国で世界の生産の約61%を占めていた。このうち、アメリカ、日本、旧ソ連などは国内資源に依拠しており、国内消費を満たすような自給自足型として発展してきたが、旧西ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなど木材資源の乏しい国々は、原木・パルプの輸入依存によって紙パルプ工業を発展させてきた国々であり、これに対し、カナダ、スウェーデン、フィンランドなどは、豊富な木材資源を背景に輸出依存型として発展してきた国々である。現在、カナダ、北欧諸国、それにアメリカがパルプの輸出国で、EC諸国、そして日本がそのおもな輸入国である。[殿村晋一]

日本の紙パルプ工業

わが国の近代的な機械製紙は、旧広島藩主浅野長勲(ながこと)が1874年(明治7)有恒社(東京・日本橋)をおこし生産を開始したことに始まり、翌75年には東京の王子に渋沢栄一の唱導により抄紙会社(王子製紙の前身)が設立された。わが国に本格的な洋紙市場が成立し、大量生産が行われたのは、日清(にっしん)・日露戦争を契機とする新聞・雑誌の大衆化によるもので、明治末年、工場数は33に及んだ。これも第一次世界大戦後の不況過程で大会社による中小会社の合併が進み、1930年(昭和5)には王子製紙、富士製紙、樺太(からふと)工業の3社で洋紙生産の86%を占めるに至った。さらに33年には世界大不況のあおりで3社が合併、王子製紙となり、王子は全国パルプ生産の96.6%、洋紙生産の84.6%(うち新聞用紙では95.1%)を占める巨大独占企業となった。一方、パルプ工業は、機械製紙が始まった当初は破布を主原料に都市に立地していたが、その後、藁(わら)を副原料とし、さらに明治30年代には輸入パルプを国産に切り替える。1909年(明治42)に富士製紙が北海道江別に、11年には王子が苫小牧(とまこまい)に工場を建て、エゾマツ、トドマツを原料としてパルプを生産し、日露戦勝の結果、南樺太にも進出した。製紙用木材パルプの自給度は急速に高まり、35年(昭和10)にはパルプ工場は27、生産量は77万トンに達した。
 第二次世界大戦後の製紙企業は、集中排除法によって王子製紙が苫小牧製紙(後の王子製紙)、十条製紙、本州製紙に分割され、独占体制は解体された。旧王子3社の市場占有率は急激に低下した(終戦時の67.5%から解体直後の1950年(昭和25)には37.7%、55年には27.7%)。樺太など外地資産(全資産の6割)の喪失が痛手であった。「国策」「東北」「日本」「山陽」のパルプ4社が製紙部門に乗り出したほか、「大昭和製紙」「中越パルプ」「高崎製紙」「日本紙業」など新興4社が上位10社に顔を出し、戦後混乱期の異常ブームにのった新興中小メーカーの出現とあわせて、業界は独占から過当競争へとさま変わりする。さらに需要の増加に伴い、新会社や工場の新増設が続き、71年には紙パルプ工業の企業数は538社に達した。パルプ専業15社、パルプ→紙一貫生産メーカー44社、特殊紙製造に特化している製紙専業メーカー479社がその内訳である。新規参入企業が増加した理由は、紙・板紙の品種が多様なため、大企業といえども全品種の紙の製造にかかわることが不可能で、パルプや新聞用紙などでは大企業が、戦後急成長した段ボール原紙や家庭用薄葉紙などでは中小企業の占める割合が高いからである。業界の過当競争体質は80年代にそのまま引き継がれている。生産量も経済界の高度成長に支えられて、73年まで飛躍的に増加した(63~73年平均の内需伸長年率9.8%)。その後、オイル・ショックなどの影響から低迷するが、83年現在、パルプ生産ではアメリカ、カナダに次いで世界の3位、紙・板紙の生産ではアメリカに次いで2位、国民1人当りの紙消費量は年間153キログラムで世界の9位である。消費の内訳は、産業用消費(商品の包装材料、事務用品、建築資材、工業製品の部品)が紙の全需要の57%、文化用(新聞、雑誌、書籍)が37%、学習用・生理衛生用が6%であった。[殿村晋一]

問題点

1980年代に入り、紙パルプ工業は、不況対策・構造改善を進めつつ、本格化する国際競争への対応を迫られている。
 1960年代の高度成長のもとで、産業用需要の伸びを中心に高成長した紙パルプ工業も、低成長への移行に伴い、紙・板紙内需伸長年率は1.8%と大幅にダウンし、内需の減退による需要ギャップの拡大のため、80年代には戦後最大の不況に陥った。81年5月に始まった不況対策では、合併など各社の自主努力に加え、洋紙主力3品種の不況カルテルの結成、9月には段ボール原紙・家庭用薄葉紙を除く紙・板紙全品種の製造設備新増設の2年間抑制、77社延べ約20万人を超える一時帰休が実施されたほか、過剰設備の処理問題については、特別不況産業安定臨時措置法の改正によって構造改善を図ろうとしているものの、業界のコンセンサスは得られていない。83年には、輸入紙の蚕食も重なって大幅な低操業(操業度は紙75%、板紙70%)を強いられている。
 国際競争力についていえば、原木資源の逼迫(ひっぱく)・高騰とエネルギー価格の高騰が問題である。紙パルプ業界は早くも1952年ごろから始まった「原木高・製品安」に対処するため、各社とも針葉樹から割安の広葉樹や廃材、製材くずなどへの転換を図り、アメリカ産針葉樹チップを中心に南方材・ロシア材を輸入するほか、古紙回収に努めるなどによって、急増する紙需要にこたえてきた。80年、パルプ材は国産材54%、輸入材46%と年々輸入材のウェートを高めており、針葉樹はアメリカ、広葉樹はオーストラリアに大きく依存している。とくにアメリカからの輸入チップ価格が79年秋から80年上期にかけて約3倍近くに急騰したため、オイル・ショック後のエネルギー高騰と絡んで、日本のパルプ業界は急速に国際競争力を失いつつあり、加えてアメリカからは製品輸入の拡大、関税引下げ要求も強まっている。このため、産業構造審議会(パルプ部会)を中心に、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどで合弁による海外工場の設立によって、パルプまたは量産製品の輸入を図り、東南アジアなどで造林事業を推進し、パルプ材の開発輸入を図る方針が明確にされ、大手メーカーの海外進出が図られている。海外進出の紙パルプ工場は、81年末現在、アメリカ2、カナダ3、ニュージーランド1、ブラジル1、計画中がアメリカ2、カナダ2、ニュージーランド1となっている。内需型素材産業として発展してきた日本の紙パルプ工業も国際化時代を迎えたのである。国内では、高濃度抄紙技術、古紙高度利用技術、省エネルギー・省資源技術の開発とともに、中小メーカーによる原材料高歩留り品種、省エネルギー品種、とくに高付加価値品種の生産への特化は不可避である。ヘドロなど公害問題については、公害防止投資は一巡したといわれるが、無公害パルプについてはコスト高を理由に開発が断念されたほか、排煙、騒音などはなお残された課題である。[殿村晋一]
『通商産業省紙業印刷業課編『緑化と国際化の中の紙パルプ産業――21世紀へ向けての産業グローバル戦略』(1994・通商産業調査会出版部) ▽テックタイムス編『紙パルプ企業・工場データブック』(2002・紙業タイムス社) ▽『紙パルプ産業と環境』各年版(紙業タイムス社)』

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