結城氏朝(読み)ユウキウジトモ

デジタル大辞泉 「結城氏朝」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐うじとも〔ゆふきうぢとも〕【結城氏朝】

[1402~1441]室町中期の武将下総しもうさの人。上杉憲実対抗足利持氏死後、その遺児を迎えて結城城に籠ったが、上杉軍に敗れて自殺

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精選版 日本国語大辞典 「結城氏朝」の意味・読み・例文・類語

ゆうき‐うじとも【結城氏朝】

室町中期の武将。下総国茨城県)の人。泰朝の子。永享の乱ののち、鎌倉公方足利持氏の遺子を奉じて結城に拠ったが、管領上杉氏に攻められ敗死した。応永九~嘉吉元年(一四〇二‐四一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「結城氏朝」の意味・わかりやすい解説

結城氏朝
ゆうきうじとも
(1402―1441)

室町時代の武将。小山泰朝(おやまやすとも)の子で、下総(しもうさ)結城満広(みつひろ)の養子。中務大輔(なかつかさのたいふ)、従(じゅ)五位下。1416年(応永23)ごろ家督継承、祖父基光(もとみつ)が死去した30年(永享2)以降結城家当主としての活動を開始。前代から敵対していた上杉氏との対立を深め、38年永享(えいきょう)の乱では足利持氏(あしかがもちうじ)を支援。40年持氏の遺児安王(やすおう)丸、春王(はるおう)丸が挙兵するとこれを結城城に迎え、関東諸家(宇都宮(うつのみや)、小山氏の一族那須(なす)、岩松氏など)を糾合して幕府・上杉軍に抗戦結城合戦)したが、翌41年(嘉吉1)4月16日敗れて子の持朝(もちとも)らと自殺。

市村高男]

『『結城市史 第1、第4巻』(1977、80・結城市)』

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改訂新版 世界大百科事典 「結城氏朝」の意味・わかりやすい解説

結城氏朝 (ゆうきうじとも)
生没年:1397-1441(応永4-嘉吉1)

室町時代の武士。小山泰朝の子,伯父結城満広の養嗣子。中務大輔。結城氏は氏朝の祖父基光の時代より下野に大きく勢力をのばし,関東管領上杉氏の下野進出にともない相互に対立を深めた。1440年(永享12)氏朝は足利持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して反上杉氏勢力を結城城に結集させ,幕府に支援される上杉軍に抗戦。約1年にわたる籠城の末戦死した。
結城合戦
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「結城氏朝」の解説

結城氏朝

没年:嘉吉1.4.16(1441.5.6)
生年:応永9頃(1402)
室町時代前期の武将。下総国結城城(茨城県結城市)城主。小山泰朝の長男,結城満広の養嗣子。通称七郎,中務大輔に任ず。養父の早世後,下野守護として活躍する祖父基光の強い影響下で育つ。基光の死とともに結城氏の家督を継ぎ,鎌倉公方足利持氏を支持する大名の中心となる。持氏が幕府に背いた永享10(1438)年の永享の乱では,将軍足利義教の命で中立の立場を取るが,同12年には持氏の遺児を擁する奉公衆・公方派大名の要請を受け,結城城を拠点として幕府・上杉軍に戦いを挑み,1年余の激戦の末,子の持朝,朝兼以下一族,家臣と共に戦死した。<参考文献>『結城市史』4巻,『関城町史』通史編上

(市村高男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「結城氏朝」の意味・わかりやすい解説

結城氏朝
ゆうきうじとも

[生]応永9(1402)
[没]嘉吉1(1441).4.16. 下総,結城
室町時代の武将。泰朝の子。初め関東管領足利持氏と対抗したが,のち和し,永享 10 (1438) 年の永享の乱には持氏を助けた。持氏が鎌倉永安寺で自殺したのち,同 12年3月氏朝は管領家の再興を期して,持氏の遺子春王,安王を擁立し,幕府軍と戦ったが敗れた。 (→結城合戦 )

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「結城氏朝」の解説

結城氏朝
ゆうきうじとも

1402~41.4.16

室町中期の下総国の武将。1440年(永享12)3月永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の遺児安王・春王が挙兵すると,氏朝は本拠下総国結城城(現,茨城県結城市)に迎え,下野・常陸などの反幕府・反上杉氏勢力の協力をえた。しかし上杉憲実・同清方らの幕府軍に包囲され,41年(嘉吉元)4月結城城は落城,氏朝は自殺(結城合戦)。

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世界大百科事典(旧版)内の結城氏朝の言及

【下野国】より

…翌39年の持氏の自害で基氏以来80年存続した鎌倉府が滅亡し,関東の動乱もようやく終息するかにみえたが,40年永享の乱の余波ともいうべき結城合戦が勃発する。持氏の遺児春王,安王は持氏余党に擁立されて挙兵し,結城氏朝の拠る結城城に迎えられた。総大将上杉清方の幕府軍には宇都宮等綱,小山持政らが参陣し,籠城軍には宇都宮伊予守,小山大膳大夫,同子息九郎,同舎弟生源寺らがいた。…

【結城合戦】より

…1440年(永享12)3月,下総の結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺子春王丸・安王丸を奉じて幕府に抗した戦い。持氏は永享の乱に敗れ前年2月に鎌倉永安寺で自殺したが,この持氏の死後も従来から続いている東国の混乱は鎮静化しなかった。…

※「結城氏朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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