日本大百科全書(ニッポニカ)「綱渡り」の解説
綱渡り
つなわたり
高所に綱を張り、その上を渡る曲芸で、綱の上で種々の芸を見せることに主眼が置かれる。エジプト、ギリシア、ローマ、中国などにも古くからあったようで、今日もサーカスの主要な演目である。日本では、奈良時代に中国から伝来した散楽雑伎(さんがくざつぎ)中の一種で、『信西古楽図(しんぜいこがくず)』には「神娃登縄弄玉」として、高足駄(あしだ)をはいた男女3人が綱を渡りながら品玉を演ずるようすが描かれている。中世から近世初頭にかけては「蜘舞(くもまい)」といわれて放下(ほうか)師によって演じられ、ここから種々の軽業(かるわざ)の芸が生まれた。宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~16)のころまではもっぱら二本綱であったが、1737年(元文2)に大坂・道頓堀(どうとんぼり)で、一ツ綱粂之助(くめのすけ)が一本綱の上で居合抜きを演じたりしたのが端となって、二本綱は廃れた。宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に「竹渡り(二本竹)」が京都の佐野川太夫によって創始され、こののち多くの「渡り物」の芸が生み出された。明和(めいわ)(1764~72)ごろに大坂の女軽業師小桜歌仙が道頓堀(どうとんぼり)で初めて「紙渡り」を演じ、天明(てんめい)(1781~89)の女太夫早雲小金は「元結(もっとい)渡り」にまで展開させた。同じころに、麒麟繁蔵(きりんしげぞう)の「衣桁(いこう)渡り(一本竹)」などの諸芸を生み、幕末には「乱杭(らんぐい)渡り」「青竹切先(きっさき)渡り」「傘渡り」「障子渡り」「木枕(きまくら)渡り」「ろうそく渡り」「坂綱(さかづな)」なども行われて大盛行した。これらは歌舞伎(かぶき)のけれん演出にも大きな影響を与えた。明治以後は西洋の綱渡りも紹介され、綱でなく針金を用いるようになり、その上を一輪車に乗って渡るなど多様化し、サーカスの芸として定着した。
[織田紘二]