総社神社(読み)そうしやじんじや

日本歴史地名大系 「総社神社」の解説

総社神社
そうしやじんじや

[現在地名]石岡市総社二丁目

石岡の市街地西端、常陸国衙跡推定地の南に位置する。祭神は伊弉諾尊・大国主尊・素盞嗚尊・瓊瓊杵尊・大宮比売尊・布留大神の六柱。旧県社で「六所の宮」「明神様」ともよばれる。総社とは国内の神社を一ヵ所に合祀した大社で、総社の起りは平安時代と推定されており(茨城県史料)、平安末期の治承三年(一一七九)五月日の常陸国総社造営注文案(総社文書)

<資料は省略されています>

と記され、百済(税所)氏・中臣朝臣が筑波社・吉田社などに総社の造営を割当てている。

総社神社
そうじやじんじや

[現在地名]前橋市元総社町

上野国府推定地ならびに蒼海おうみ城跡の南東、字屋敷やしきにある。祭神は経津主命・宇加之御魂命・須佐之男命など五四九柱で、ほかに磐筒男・磐筒売を祀る。旧県社。神体は上野国一四郡の鎮守一〇社と摂社名を記した「上野国神名帳」で、総社本として知られ、県指定重要文化財。社伝によると、崇神天皇の皇子豊城入彦命が軍神経津主命を祀ったのが始めで、その後安閑天皇の時に上毛野小熊が社殿を改築して蒼海明神と称した。

総社神社
そうしやじんじや

[現在地名]真野町吉岡 総社

吉岡よしおか集落のほぼ中央部字総社に鎮座。佐渡国総社で旧村社。吉岡はじめ近隣の七ヵ村の総鎮守といわれた。祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・素盞嗚尊・天太玉尊・大己貴命・少彦名命。往古は惣座大明神あるいは惣社大明神とよばれたが、文化年中(一八〇四―一八)に総社大明神一号に改めたという。「佐渡国寺社境内案内帳」は「開基知れずと元禄寺社帳にあり」とする。「真野村誌」によれば、「往古竹田・吉岡両村入会地字八社林はせんばやしに鎮座、大社なりしが、王政おとろえるに伴い祭事欠け、吉岡地頭本間氏その領内吉岡の中央に東西二十七間・南北六十二間の地をならして遷座、世々崇敬深く例年流鏑馬の神事を行う」と記し、天正一七年(一五八九)の上杉氏佐渡侵攻の際に文書宝器を失ったという。

総社神社
そうしやじんじや

[現在地名]秋田市川尻総社町

川尻かわしりのほぼ中央、やや小高い地に森に囲まれて鎮座する。祭神は天照大神・豊受大神・大国主大神ほか二柱。旧県社。

縁起では神亀元年(七二四)三森みつもり山に勧請という(「三岳山総社大明神御鎮座記」秋田市史)。三森山は矢止やどめ山とも神明しんめい山とも称され、佐竹氏入部以前には川尻氏の氏神が祀られていたと伝える。「秋田昔物語」に慶長七年(一六〇二)「只今の御城ハ其頃迄ハ惣社之宮有之、矢止山ト申候由(中略)惣社ハ川尻村へ御遷し其跡に御城を御築被成候由」とある。

総社神社
そうじやじんじや

[現在地名]坂出市林田町 総社

おん山の西麓、神谷かんだに川の流れに沿った平地に建つ。祭神伊弉諾尊・伊弉冉尊・国中大小神祇、旧郷社。社記(讃岐国名勝図会)に「惣社大明神は阿野北郡林田郷松ケ浦今は惣社といふに鎮座す。御社、今は海汀とは五、六丁もへだたれど、今も御社の近きわたり深く掘りみれば貝のからなどいと多かるとて、昔は海辺なる事しるべし」とある。社伝によれば延長四年(九二六)創建。讃岐国府近傍にあって、国衙により一国の惣社として国中大小の神祇が祀られ、毎年国司の奉幣があったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報