日本歴史地名大系 「川尻村」の解説
川尻村
かわしりむら
- 秋田県:秋田市
- 川尻村
川尻村
かわしりむら
川尻宿は外浦街道
川尻村
かわしりむら
河北潟東方、津幡川河口近くの左岸に位置。川尻船着場が置かれ、集落は本村のほか「まとば」がある(三州地理雑誌)。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)に川尻村とみえ、
川尻村
かわしりむら
元和五年(一六一九)の備後国知行帳に八三六石五斗四升四合とあり、「芸藩通志」には田畝一〇八町三反九畝とあり、「世羅郡誌」によると文政三年(一八二〇)には実畝八五町九反六畝一一歩のうち、田五八町八反九畝一四歩・畠二五町八反三畝一歩・宅地一町二反三畝二六歩で、本途物成五一五石一斗七升一合、万延元年(一八六〇)には高が八三石一斗一升七合あり、村高のうち六三〇石余が明知、他は二人の給知。
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわじりむら
北は
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわじりむら
- 茨城県:日立市
- 川尻村
東の海岸沿いを
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわしりむら
- 石川県:珠洲市
- 川尻村
正院村の東に位置し、同村との境を南流する
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわじりむら
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわじりむら
- 山口県:岩国市
- 川尻村
天尾四ヵ村のうちで、
この折の村高は高一一八石余で、うち畑方六〇石余、楮高四九石余である。享保一一年(一七二六)の村高は天尾四ヵ村合計で高三八八石余となっており、四ヵ村各別の村高は記録してないが、高一一八石と変わらなかったもののようである。当時の人口三三八人、戸数五三軒、牛二三頭(享保増補村記)。
川尻村
かわしりむら
- 富山県:氷見市
- 川尻村
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわしりむら
北西に
元禄一二年(一六九九)当村の利右衛門が開田した三反二五〇歩の帰属をめぐって南にある
川尻村
かわじりむら
「寛文朱印留」には「河尻村」とあり土井利益(のち古河藩主)領。「各村旧高簿」によれば幕末には天領で村高六二七・八四六石。下妻城主多賀谷氏の家臣赤松新右衛門は多賀谷氏没落後に当村に土着し、近世末期には回漕問屋を経営し、高瀬舟一五艘・山林二〇町歩を所有したが、明治四年(一八七一)には上流の
川尻村
かわしりむら
川尻村
かわじりむら
日本海に東面する漁港で、本来向津具村内の浦であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)捕鯨業が盛んになるにつれ、この浦が北浦(日本海)を回遊する鯨群を迎えるための絶好の場所であったため、同一一年に鯨組が組織された。それにより向津具村支配より切り離し、小村ながら庄屋が置かれて独立した。しかし「地下上申」や「注進案」では村としての高付はなく、向津具村内の小名として記される。「注進案」は川尻浦鯨組の漁具について、惣階九隻、追船八隻、持双船二隻、縄網船三隻、合計二二隻、そのほか網数七二反、もり一〇〇本、はやもり一〇本、剣一〇振とし、漁法については「鯨見請候へば諸船乗出し網を打、追船より追立、網へ懸り候へばもり突留剣切等仕、生魚にて持双に懸け波戸場へ漕付、三ツ切にして入札売相成来候」と記録する。
川尻村
かわじりむら
川尻村
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川尻村
かわしりむら
川尻村
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川尻村
かわじりむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報