川尻村(読み)かわしりむら

日本歴史地名大系 「川尻村」の解説

川尻村
かわしりむら

[現在地名]秋田市川尻総社かわしりそうしや町・川尻上野かわしりうわの町・川尻新川かわしりしんかわ町・川尻若葉かわしりわかば町・川尻かわしりみよし町・川尻御休かわしりおやすみ町・川尻大川かわしりおおかわ町・川元松丘かわもとまつおか町・川元山下かわもとやました町・川元開和かわもとかいわ町・川元かわもとむつみ町・川元小川かわもとおがわ町・旭南きよくなん一丁目・同三丁目・旭北栄きよくほくさかえ町・旭北寺きよくほくてら町・旭北錦きよくほくにしき町・山王さんのう一―七丁目・山王新さんのうしん町・山王沼田さんのうぬまた町・山王中園さんのうなかぞの町・山王臨海さんのうりんかい町・山王中島さんのうなかじま

あさひ川・太平たいへい川が村の南端で雄物川に合流する。旭川・雄物川を上下する船が通過し川口かわぐち番所があり、また雄物川対岸新屋あらやへの渡船場でもあった。川尻は雄物川の川尻の意。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に村高五四九石一斗四合とあり、太閤蔵入地。文禄元年(一五九二)秋田実季分限帳(秋田家文書)には一千七三二石余とある。一千余石の高に疑問は残るが大村であった。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]志賀町川尻

神代かくみ川河口北岸の村で、外浦街道・大津おおつ越の宿駅として、近海航路の湊として栄え、神代川尻ともいった。元和二年(一六一六)の高八〇石余、役棟七(「苦竹運上極」雄谷文書)正保郷帳の高も同じで、田二町二反余・畑三町余、免四ツ七歩九厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高八五石の小村であったが免六ツ三歩と高く、小物成は苦竹役一一匁、鳥役一匁(出来)、猟船櫂役五五匁(出来)、三歩半口銭四・六匁(出来)、釣役二四匁(出来)、地子米一斗八升(出来)、外海船櫂役一八〇匁(うち出来七匁)、間役二四匁(退転)とあり(三箇国高物成帳)、海運・漁業が主産業で、町場が形成されていたことがうかがえる。

川尻宿は外浦街道一宮いちのみや宿(現羽咋市)富来とぎ宿(現富来町)の間にあり、寛文八年に神代川河口に橋が架けられるまで、対岸の大念寺新だいねんじしん村から渡船で往来していた(「穴口村旧記」穴口区有文書)。正保四年(一六四七)の三州道程等書上帳にも「神代川、深三尺・幅十七間。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]津幡町川尻

河北潟東方、津幡川河口近くの左岸に位置。川尻船着場が置かれ、集落は本村のほか「まとば」がある(三州地理雑誌)。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)に川尻村とみえ、黒津舟くろつぶね権現(現内灘町の小浜神社)再興の協力を命じられている。正保郷帳では高五六一石余、田方三四町五反余・畑方二町九反余、新田高三九五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一千八一石、免五ツ九歩、小物成は山役四八匁・湖網役一一匁、猟船櫂役一〇匁(退転)であった(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数三七(高免付給人帳)。河北潟縁辺の新開は古くからなされ、延宝元年(一六七三)三〇石余、同五年一六石余、天和元年(一六八一)七五石余、同二年六五石余、享保九年(一七二四)一二石余の新開がみられた(「河北郡村々調理書上帳」林文書)。文化四年(一八〇七)の新開請高一四一石余は、百姓・頭振総家数一七七軒に分け、七八石余は惣百姓に高割とした(「潟縁乾場所申付状」川尻区有文書)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]甲山町川尻

宇津戸うづと村の北に位置し、西部を大田おおた(現芦田川)が西南から蛇行して北流、流域の平坦地と支流の谷々に農耕地が開け、平坦地には条里制の遺構が認められる。北の伊尾いお村にいた三善氏などの地頭勢力がこの地に及んでいたことは、村内に別迫べつさこの地名があるところからも考えられる。正安二年(一三〇〇)六月二九日の備後国大田庄嘉禎検注目録等注進状(高野山文書)の請処在所の項に「一所 備後国河尻社当知行」とある。文明四年(一四七二)頃の山名持豊感状(山内首藤家文書)によると、大田庄内の河尻かわしりで合戦があり、山内豊成が守護山名氏から戦功を賞されている。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に八三六石五斗四升四合とあり、「芸藩通志」には田畝一〇八町三反九畝とあり、「世羅郡誌」によると文政三年(一八二〇)には実畝八五町九反六畝一一歩のうち、田五八町八反九畝一四歩・畠二五町八反三畝一歩・宅地一町二反三畝二六歩で、本途物成五一五石一斗七升一合、万延元年(一八六〇)には高が八三石一斗一升七合あり、村高のうち六三〇石余が明知、他は二人の給知。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]吉田町川尻

九左衛門くざえもん新田村の東に位置し、大井川が駿河湾に注ぐ河口右岸に立地する。東の大井川対岸は飯淵はぶち(現大井川町)、北は高島たかしま村。貞治六年(一三六七)一〇月二日の官宣旨案(南禅寺文書)初倉はづくら庄内「鮎河郷河尻村」とみえ、初倉庄など京都南禅寺領の恒例臨時公役が免除されており、当村は初倉庄を構成する鮎河あいかわ(現大井川町)に付属する村であった。嘉慶元年(一三八七)一二月日の初倉庄勘落注文(同文書)では、当村の斗上交分などの合計は五七石五斗余で、斗上交分と減米の注記から計算すると、当村の本年貢は三〇七石余であった。応永一〇年(一四〇三)閏一〇月日などの南禅寺寺領目録(同文書)にも「鮎河郷付河尻村」とある。文安二年(一四四五)八月一六日の初倉庄名主百姓等連署請文(同文書)は河尻など初倉庄の百姓らが作成したもので、当村では福与・三郎衛門・次郎左衛門・藤衛門・左衛門大夫の五人が署名している。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]川尻町

北は中畑なかはた村、東は内海跡うちのうみあと(ともに現安浦町)に接し、南東は瀬戸内海に面する。海上南に上蒲刈かみかまがり(現安芸郡蒲刈町)が浮び、その間にあるかしわ島・女猫めねこ島は川尻村分に属す。地名は大永三年(一五二三)八月一〇日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に「仁賀田河尻七十五貫、多賀屋・乃美・得益両三人知行」とみえ、西隣の仁方にがた(現呉市)と一体として扱われている。ルイス・フロイスの「日本史」には、天正二年(一五七四)イエズス会宣教師フランシスコ・カブラルが病気になって、九郎右衛門という異教徒の海賊に伴われて、その妻と家族が住んでいる川尻という港に行き、約二〇日間滞在し、手厚い看病を受けたことがみえる。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]作手村高里たかさと

長者平ちようじやひら村の北に接し、草谷そうや村の東北。しろ山の麓にある。天正年間(一五七三―九二)までは長者平村に属していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)に分村したものと思われる。慶長七年より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、享和二年(一八〇二)より平藩安藤対馬守領となり、文久二年(一八六二)幕府領に復して幕末に至る。慶応元年(一八六五)の助郷免除願書(三州長者平村所収文書)によると、戸口は三二軒・一三二人、馬四匹。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]田鶴浜町川尻

内浦街道二宮にのみや川が交わる北側にあって、七尾西湾に北面する。南は垣吉かきよし村など。地名は二宮川下流域に位置することに由来する。文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高三〇七石余、長家領所。正保郷帳では高五六六石余、田方三五町余・畑方二町七反余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)によると高三四八石、免四ツ五歩八厘。同年加賀藩直轄領となり、延宝七年(一六七九)の村御印では高四一九石、免三ツ九歩、小物成は鳥役五匁・引網役二三匁(三箇国高物成帳)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]豊能町川尻

能勢のせ郡に属し、天台てんだい(六四〇・一メートル)の東に位置する山村。西は同郡吉川よしかわ村。河尻とも書く。村の東部を余野よの川が南西流し、それに沿って余野道(摂丹街道)が通る。宝治二年(一二四八)勝尾かつお(現箕面市)において般若会の興行があったが、そのときの舞呪の一人として「幸寸河尻、十五」とみえる。正和三年(一三一四)一二月、「忍頂寺五箇村并与野河尻等住民」が勝尾寺領四至内の山野に乱入し、狩猟・伐木をしたため、仁和寺法親王庁が禁断の下文を出している(勝尾寺文書)


川尻村
かわじりむら

[現在地名]日立市川尻町一―五丁目・川尻町

東の海岸沿いを岩城相馬いわきそうま街道が通る。北は伊師本郷いしほんごう(現多賀郡十王町)で、ほぼ境界沿いを梁津やなつ(十王川)が東流する。西側の多賀山地東麓に弥生時代より古墳時代後期の陣の平じんのたいら遺跡がある。梁津川左岸のかんぶり穴横穴群は壁画をもつ横穴三基を含み、その壁画は並列三角文や楯状の図柄などを主要素に、線彫と赤・黒・白の塗彩とを併せ用いた稀有の例を示す。館山たてやま神社(祭神大山祇命、旧村社)は社伝に、嘉応元年(一一六九)社殿を蚕養嶺こかいのみねに移し、村名の旧異称国井浜くにいはまの総鎮守としたという。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]藤島町川尻

平足へいそく村の東に位置。平足・無音よばらず両村との間に大沼があり、そこに注ぐ川の河口にできた村といわれる。大沼はのちに新田となった。河尻とも記され、現在は上下二集落よりなる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二二八石余。寛永元年庄内高辻帳では高四〇九石余。明和二年(一七六五)頃の玉塵集(八幡文書)では、田三九町一反余・畑一町余、取米二〇九石余、毛付免四ツ四分余、家数二七・人数一二八。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]珠洲市正院町川尻しよういんまちかわしり正院町平床しよういんまちひらとこ

正院村の東に位置し、同村との境を南流するママ川の河口部は中世の正院湊である。河尻とも記す(天保郷帳)。「三州志」にみえる平床のほか、新保しんぼ町などの垣内がある。中世は正院郷の内で、長享元年(一四八七)九月、将軍足利義尚の近江出兵(六角征伐)在陣衆のうち三番衆として長川尻がみえ(常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到)、正院郷を支配する長氏の庶流が当地を本貫地として長川尻氏を称した。「三州志」によれば長氏系図にいう長氏五世盛連の子範信を祖とするが確証はない。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]穴水町川尻

中居なかい入江に注ぐ川尻川河口付近にあり、寛文四年(一六六四)川尻川浜中はまなかに長さ八間二尺・幅一間の橋が架けられた(大西文書)。内浦街道に沿い、南は岩車いわぐるま村、西は比良びら村、北東は山越えで中谷なかんたに村。河尻村とも記される。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、南北なんぼくのうち川尻で棟役を負担する役屋は九間とある。

正保郷帳では高五九石余、田方二町七反余・畑方一町二反余。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]四日市市川尻町・大治田おばた三丁目

内部うつべ川下流北岸に位置し、西は大治田村。江戸時代前半の集落は、現集落の南、内部川近くにあったが、洪水のため移転したと伝えられる。藤原宮(現橿原市)東面大垣外濠出土木簡に「伊勢国三重郡川尻」と出る。「和名抄」には河後かわじり郷の名前がみえ、郷名は中世まで続く(→河後郷。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳によれば、これ以前は中山猪右衛門(二〇〇貫文)・安井勝三郎(一五〇貫文)・前嶋藤八(一三〇貫文)の知行地であった。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]岩出町川尻

紀ノ川の支流根来ねごろ川の中流域にある。南東は中迫なかばさ村、南西はいばらもと村。村の西部を根来往還が通る。「続風土記」は「根来川のすそにあるを以て呼ふ(中略)此ノ荘にては当村を川末とすれは此ノ名ありといふ」と記す。中世は弘田ひろた庄に含まれたと思われる。

慶長検地高目録によれば村高四八五石余、小物成三斗一升五合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田二三町六反余で高三七六石余、畑七反余で高一一石余。二歩米九石七斗四升六合でこの銀五八四匁七分六厘、御借種米は元米が一九石四斗三升一合でその利米三石八斗六合二勺。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]岩国市大字天尾てんのお 川尻

天尾四ヵ村のうちで、にしき川の天尾村内川下北岸にある。寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に「天尾の内 川尻村」とみえる。

この折の村高は高一一八石余で、うち畑方六〇石余、楮高四九石余である。享保一一年(一七二六)の村高は天尾四ヵ村合計で高三八八石余となっており、四ヵ村各別の村高は記録してないが、高一一八石と変わらなかったもののようである。当時の人口三三八人、戸数五三軒、牛二三頭(享保増補村記)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]氷見市川尻

十二町じゆうにちよう潟の南部沿岸に位置し平野の中央部にある。北には十二町潟とその沿岸に広がる周辺各村の新開地があり、東は耳浦みみうら村、南は海津かいづ村、西に下久津呂しもくづろ村。集落は村の南西部にある。布施ふせ川が南西より北東に村を縦断して流れ、集落中央に橋がある。天正一〇年(一五八二)二月一〇日の知行方目録(越佐史料所収川辺氏旧記)によれば、上杉景勝より神保信包に「見々浦・かわしり一円」が与えられている。正保郷帳の高三八〇石余、田方二五町三反余、新田高六〇石余、田方四町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三七〇石・免五ツ九歩、寛文一〇年の新田高一八石・同免。小物成は猟船櫂役五匁(退転)・網役一一匁(うち七匁出来)であった(三箇国高物成帳)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]八竜町川尻

八郎潟北岸に位置し、東は二ッ森ふたつもり(現山本町)、北は泉八日いずみようか(現山本町)、西に鵜川うかわ村、南に久米岡新田くめおかしんでん村がある。湖畔の湿地帯に発達した村。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「三百廿七石五斗四升八合 川尻村 こい川村」とある。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「百五拾石六升八合 檜山之内川尻村」とあり、鉄鉋衆が「川尻扇田之内」に一〇名配されている。川尻扇田おうぎだは「六郡郷村誌略」に「古城川尻靭負といふ者居す、秋田実季の家士と云」とある。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]福井市川尻町

北西に三里浜さんりばま砂丘が広がり、南東に朝倉あさくら山を望む地、石橋いしばし村の西南にある。文明六年(一四七四)八月六日付の蓮如消息に「河尻性光門徒」と地名がみえる。慶長三年(一五九八)の越前国西方塩浜御検地帳(広浜家文書)に「川しり村」とあり、村浜は三二一間、名請人はとね、「しほかま 拾一」とあって製塩を行っていた。正保郷帳によれば田方六〇石に対し畠方一四〇石で、砂丘地帯に位置するためか、総村高の七割が畠である。福井藩領。

元禄一二年(一六九九)当村の利右衛門が開田した三反二五〇歩の帰属をめぐって南にある市瀬いちのせ村との間に争いがあった(乍恐返答書を以言上仕候「棗村誌」所収)


川尻村
かわじりむら

[現在地名]八千代町川尻

鬼怒きぬ川西岸に所在。鬼怒川中流の乱流地帯に属する平坦な沖積地水田地帯。東の今里いまざと村から続く鬼怒川西岸の道に沿って集落が形成されてきたが、南部を東西に国道一二五号が貫通するとそれに沿って集落が形成された。小字逆川さかがわがあり、神護景雲二年(七六八)の鬼怒川の付替え(続日本紀)によって廃川となった旧河道の最末端と考えられる。

「寛文朱印留」には「河尻村」とあり土井利益(のち古河藩主)領。「各村旧高簿」によれば幕末には天領で村高六二七・八四六石。下妻城主多賀谷氏の家臣赤松新右衛門は多賀谷氏没落後に当村に土着し、近世末期には回漕問屋を経営し、高瀬舟一五艘・山林二〇町歩を所有したが、明治四年(一八七一)には上流の野爪のづめ河岸もその翼下に収め、一貫五〇〇文を納めた(宮田家文書ほか)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]加治川村川尻

加治川右岸に位置し、東は押廻おしまわし村、北は古川ふるかわ村。正保国絵図に村上藩領として村名が載る。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では川尻組に属し、延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)には高二八五石七斗余・反別二八町一反余、家数一九・人数一四〇とある。宝永七年(一七一〇)幕府領、享保九年(一七二四)三日市藩領となり、同年の郷村高辻帳(伊藤喜太郎氏蔵)には高二八〇石二斗余とある。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]油谷町大字向津具上むかつくかみ・大字川尻

日本海に東面する漁港で、本来向津具村内の浦であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)捕鯨業が盛んになるにつれ、この浦が北浦(日本海)を回遊する鯨群を迎えるための絶好の場所であったため、同一一年に鯨組が組織された。それにより向津具村支配より切り離し、小村ながら庄屋が置かれて独立した。しかし「地下上申」や「注進案」では村としての高付はなく、向津具村内の小名として記される。「注進案」は川尻浦鯨組の漁具について、惣階九隻、追船八隻、持双船二隻、縄網船三隻、合計二二隻、そのほか網数七二反、もり一〇〇本、はやもり一〇本、剣一〇振とし、漁法については「鯨見請候へば諸船乗出し網を打、追船より追立、網へ懸り候へばもり突留剣切等仕、生魚にて持双に懸け波戸場へ漕付、三ツ切にして入札売相成来候」と記録する。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]佐原市川尻

谷中やなか村の北に位置し、利根川に面した村。対岸は六角ろつかく(現茨城県東村)。利根川とその支流八間はちけん川に挟まれ、溢水時には水害に悩まされる低湿地帯。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高九一石余(「部冊帳」伊能家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では幕府領で、以後変化なく幕末に至ったとみられる(旧高旧領取調帳)


川尻村
かわしりむら

[現在地名]明和町川尻

はらい川西方にあり、北は伊勢湾、東は北藤原きたふじわら村、南はなか村、西は土古路ところ(現松阪市)に接する。天文一五年(一五四六)二月書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)に「一段 五十文 河尻 地蔵院」あるいは「一段ツカ垣内 米壱升 河尻 地蔵院」とみえる。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]富士市川尻・川尻東かわしりひがし

浮島うきしま沼の北西端に位置し、北は中里なかざと村・増川ますがわ村・神谷かみや村。「駿河記」によると、神谷川の流れが変わって河原となった地に村が形成されたという。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に村名がみえ、田方二五六石余・畑方一〇石余。元禄郷帳では川尻村一七七石余・西川尻村三九石余、国立史料館本元禄郷帳ではともに幕府領。


川尻村
かわしりむら

[現在地名]生野町川尻

真弓まゆみ村の南西に位置し、いち川が流れる。天正一〇年(一五八二)頃、生野銀山を与えられた羽柴秀吉は「河尻淵名主百姓中」に銀山普請のため縄・竹木・人足を出すように命じている(七月五日「羽柴秀吉折紙」北村文書)。播磨国神西じんさい郡に属する。


川尻村
かわじりむら

[現在地名]小川町川尻

東は北新田きたしんでん村、西から南にかけては南新田村に接する。近世初期に干拓された土地と推測されるが、立村は明治三年(一八七〇)である。明治初年の「郡村誌」によると田八反四畝・畑九町六反一畝・宅地五反六畝、戸数三七、男九〇・女八八、馬二一で、民業戸数として染物職一があり、物産として菜種・綿などがみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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