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陸軍大将、政治家。宇都宮市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。参謀本部員などを経て、1930年(昭和5)軍務局長となる。1931年の三月事件に関与した。その後、陸軍次官、関東軍参謀長などを歴任。1937年大将となり、1938年予備役に編入される。1939年平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣、1940年米内光政(よないみつまさ)内閣の拓相となる。1942年朝鮮総督。1944年には東条英機(とうじょうひでき)内閣の後を受け、米内光政と協力して組閣。戦争完遂を目ざしたが、戦局は打開されなかった。また最高戦争指導会議を設け国務と統帥の一元化に努めたが成果はあがらなかった。1945年4月総辞職。終戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり、1948年(昭和23)終身禁錮の判決を受けた。服役中病没。自伝『葛山鴻爪(かつざんこうそう)』がある。
[小田部雄次]
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
…太平洋戦争末期の日本の最高戦争指導機関。政戦両略(国務と統帥)の一致を実現するため,小磯国昭首相の提唱により1944年8月5日大本営政府連絡会議を廃止して設置された。会議の目的は,〈戦争指導ノ根本方針ノ策定及政戦両略ノ吻合調整ニ任ズル〉ことにあり,会議は宮中で開かれ,重要案件の審議には天皇も臨席し,首相,外相,陸相,海相,参謀総長および軍令部総長の6名を正式の構成員,内閣書記官長,陸軍省,海軍省の両軍務局長を幹事とし,必要に応じて他の国務大臣,参謀次長,軍令部次長,枢密院(すうみついん)議長を出席させることとした。…
…前年10月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。計画は参謀本部支那課長重藤千秋大佐が中心となって作成し,右翼の大川周明,社会民衆党の赤松克麿,亀井貫一郎らとも連携,徳川義親から20万円の資金をえた。…
※「小磯国昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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