緒方貞子(読み)おがたさだこ

  • 1927―
  • おがたさだこ〔をがた〕
  • 緒方貞子 おがた-さだこ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]1927.9.16. 東京,東京
[没]2019.10.22. 東京
国際政治学者。1951年聖心女子大学を卒業後,アメリカ合衆国のジョージタウン大学で国際関係論の修士号,カリフォルニア大学バークリー校で政治学博士号を取得する。1974年国際基督教大学準教授に就任。1976年女性として日本初となる国際連合日本政府代表部の公使となり,国連総会の日本代表である国連日本代表部特命全権公使を歴任。1980~88年上智大学教授,1989~91同大学外国語学部部長。この間,国連児童基金 UNICEF執行理事会議長を務め,また日本政府派遣のカンボジア難民救済実情視察団団長として現地入りしたり,国連人権委員会(→人権理事会)の日本政府代表としてミャンマーの人権状況の実施調査を行なったりするなど,人道的活動に情熱を傾ける。1991~2000年第8代国連難民高等弁務官(→国連難民高等弁務官事務所),2001~04年アフガニスタン復興支援総理特別代表に就任,アフガニスタン復興支援国際会議では共同議長を務める。2003~12年国際協力機構 JICA理事長,2012~14年同特別顧問。1994年読売国際協力賞,1996年ユネスコ平和賞,1997年マグサイサイ賞など内外の受賞・受章多数。2001年文化功労者に選定,2003年文化勲章受章。著書に『満州事変政策の形成過程』(1966),『戦後日中・米中関係』(1992),『難民つくらぬ世界へ』(1996),『紛争と難民 緒方貞子の回想』(2006)などがある。

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知恵蔵の解説

国連特命全権公使、国連難民高等弁務官、国際協力機構(JICA)理事長等を務めた国際政治学者(1927~2019年)。当初は日本人女性初の国連公使(1976年)として注目されたが、国連難民高等弁務官を務めた90年代、イラク戦争で発生したクルド難民から、バルカン紛争、ルワンダ・ザイール危機、アフガン紛争などによって発生した数百万人規模の難民への人道支援と平和構築の活動が高く評価されている。人間中心主義・現場主義を理念に、防弾チョッキで紛争の最前線に駆けつけ、難民の声に耳を傾ける姿は世界のメディアの注目を集めた。粘り強い交渉で、紛争解決の道筋と難民の保護・支援体制を構築。紛争終結後は、復興支援や難民の教育・職業訓練支援、開発との連携などの活動を進めながら、世界に向けて「難民に対する尊厳」の大切さもアピールした。
国連の難民支援体制を変革した功績も大きい。それまで国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の保護の対象は国外に逃れた難民に限られていたが、紛争地内の避難民(国内避難民)にも目を向け、その保護・救済活動にも着手した。また、内戦や紛争だけでなく、恐怖と欠乏をもたらすあらゆる脅威から人々を守る「人間の安全保障」の理念を訴えた先駆者としても知られる。死去の際には、国際機関や各国の指導者が相次いで追悼の声明を出し、英BBCは「身長5フィートの巨人」とたたえた。
27年、外交官中村豊一の子として東京に生まれた。曽祖父は五・一五事件で暗殺された首相犬養毅、祖父は満州事変の処理を担った外交官芳澤謙吉という政治・外交一家である。幼少期を海外で過ごし、終戦後の48年に聖心女子大へ進学。学長マザー・ブリットの影響を強く受け、カトリック信者となった。卒業後、米国のジョージタウン大、カリフォルニア大に留学し、国際関係論・政治学を学ぶ。学位論文『満州事変と政策の形成過程』は日本政府と軍部の「無責任の体制」を明らかにし、米国内で高い評価を受けた。帰国後、国際基督教大准教授、上智大教授を歴任。その間、国連公使、国連特命全権公使を務めたあと、91年に第8代国連難民高等弁務官に就任(~2000年)、その後アフガニスタン支援政府特別代表を務めるかたわら、03年に国際協力機構理事長に就任した(~12年)。退任後のインタビューでは、難民の受け入れに消極的な日本政府の姿勢に苦言を呈しながらも、難民問題の永続的な解決の夢を次世代に託していた。享年92。

(大迫秀樹 フリー編集者/2019年)

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デジタル大辞泉の解説

[1927~2019]東京の生まれ。国連人権委員会日本政府代表などを経て、平成3年(1991)女性初の国連難民高等弁務官に就任、難民の支援・救済に尽力した。退官後は国際協力機構(JICA(ジャイカ))理事長などを歴任。平成15年(2003)文化勲章受章。

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百科事典マイペディアの解説

国際政治学者,国連官僚。東京都生れ。聖心女子大卒。ジョージタウン大,カリフォルニア大へ留学。学位論文《満州事変と政策の形成過程》は米国で出版され,高い評価を受けた。1974年国際基督教大準教授。1976年国連公使となり,1978年―1979年特命全権大使。その間,ユニセフ執行理事会議長を務める。1982年―1985年国連人権委員会政府代表を務め,1990年には同委員会でミャンマーの人権抑圧を調査する。1991年−2000年第8代国連難民高等弁務官(国連難民高等弁務官事務所)として活躍。2003年国際協力機構の初代理事長に就任。政治家の緒方竹虎義父

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1927- 昭和後期-平成時代の国連官僚。
昭和2年9月16日生まれ。芳沢(よしざわ)謙吉の孫。もと日本開発銀行副総裁緒方四十郎の妻。アメリカに留学し,昭和49年国際基督(キリスト)教大準教授。51年日本初の女性の国連公使となる。55年上智大教授。57年国連人権委員会日本政府代表をつとめ,平成3年国連難民高等弁務官に選出された。8年日本人ではじめてユネスコ平和賞。13年文化功労者。15年国際協力機構(JICA,旧国際協力事業団)理事長。同年文化勲章。東京出身。聖心女子大卒。

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知恵蔵miniの解説

国際政治学者。1927年9月16日、東京都生まれ。51年に聖心女子大学を卒業後、アメリカ合衆国ジョージタウン大学で国際関係論の修士号を、カリフォルニア大学バークリー校で政治学博士号を取得。国際基督教大学準教授を経て、76年に日本人女性として初の国連公使となった。その後、国連総会の日本代表、国連人権委員会日本政府代表などを歴任。91年1月から2000年末まで国連難民高等弁務官事務所の最高責任者を務め、イラクでのクルド人支援などに尽力した。01年にはアフガニスタン支援日本政府特別代表に就任し、復興支援国際会議で共同議長を務めた。03年に国際協力機構(JICA)の理事長に就任。海外事務所を増やしたり、アフリカ諸国への援助を増加したりするなどの改革を押し進めた。12年に退任して特別顧問となってからも、シリアの難民問題などについて活発に発言し続けた。ユネスコ・ウフエボワニ平和賞、文化勲章など多数受賞・受章している。19年10月22日死去。享年92。

(2019-10-31)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

第8代国連難民高等弁務官。東京都生まれ。外交官を父にもち、11歳までアメリカ、中国で過ごした。聖心女子大学を卒業後、アメリカに留学し、カリフォルニア州立大学で学位を取得。1968年(昭和43)に国連総会の政府代表顧問、上智大学教授、国連公使を経て、1978年にユニセフ(国連児童基金)議長に就任し、1979年の「国際児童年」事業を推進した。1982~1985年国連人権委員会日本代表、1991年(平成3)1月に国連難民高等弁務官に就任した(~2000)。就任早々、湾岸戦争でのクルド人難民問題に直面、積極的救済努力を説いて回った。旧ユーゴスラビアやソマリアをはじめ、2000万人にものぼる世界の難民を生んでいる紛争地帯を飛び回る行動力と、紛争当事者を相手に回しての粘り強い交渉力は、各国外交団から高い評価を得た。1996年ユネスコ平和賞受賞。上智大学名誉教授。2001年文化功労者。2003年独立行政法人国際協力機構(JICA(ジャイカ))理事長就任。同年文化勲章受章。[編集部]
『緒方貞子著『難民つくらぬ世界へ』(1996・岩波書店) ▽緒方貞子著『私の仕事──国連難民高等弁務官の十年と平和の構築』(2002・草思社) ▽黒田龍彦著『緒方貞子という生き方』(2002・ベストセラーズ) ▽東野真取材・構成『緒方貞子──難民支援の現場から』(集英社新書)』

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