東久邇稔彦(読み)ヒガシクニナルヒコ

デジタル大辞泉 「東久邇稔彦」の意味・読み・例文・類語

ひがしくに‐なるひこ【東久邇稔彦】

[1887~1990]軍人旧皇族京都の生まれ。第二次大戦終結直後、首相として皇族内閣を組織し終戦処理にあたった。→幣原喜重郎

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精選版 日本国語大辞典 「東久邇稔彦」の意味・読み・例文・類語

ひがしくに‐なるひこ【東久邇稔彦】

  1. 旧軍人。陸軍大将。久邇宮朝彦親王の第九子。昭和二〇年(一九四五)、第二次世界大戦後最初の首相となり、降伏文書調印、軍の解体、行政機構の平時化、占領軍の受け入れなどを行なった。明治二〇~平成二年(一八八七‐一九九〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東久邇稔彦」の意味・わかりやすい解説

東久邇稔彦
ひがしくになるひこ
(1887―1990)

元皇族、軍人。久邇宮朝彦親王の第9子として京都に生まれる。1906年(明治39)東久邇宮家を創立。皇族の例として陸軍士官学校陸軍大学校を卒業した。夫人は明治天皇の第9皇女聡子(としこ)内親王。1920~1927年(大正9~昭和2)フランスに留学、自由主義的雰囲気に触れる。帰国後第二・第四師団長、陸軍航空本部長などを歴任、1938年第二軍司令官として華北に従軍、1941年には防衛総司令官となった。第二次世界大戦敗戦後、初の皇族首相として、終戦処理内閣を組織したが、10月4日GHQ(連合国最高司令部)の民主化指令に対応できず、総辞職した。1947年(昭和22)皇室典範等の改正で皇族の身分を離脱、その後新興宗教「ひがしくに教」の教祖として話題となった。

[宮﨑 章]

『東久邇稔彦著『東久邇日記』(1968・徳間書店)』『長谷川峻著『東久邇政権・五十日 終戦内閣』(1987・行研出版局)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「東久邇稔彦」の解説

東久邇 稔彦
ヒガシクニ ナルヒコ


肩書
第43代首相

別名
旧名=東久邇宮 稔彦(ヒガシクニノミヤ ナルヒコ)

生年月日
明治20年12月3日

出生地
京都府京都市

学歴
陸士〔明治41年〕卒 陸大〔大正3年〕卒

経歴
久邇宮朝彦親王第九男子。明治39年東久邇宮の称号を賜る。陸士、陸大を卒業後、大正9年からフランスに7年間留学し、自由主義の気風を身につけた。陸軍内部では皇道派と衝突し、左遷されたことも。師団長、軍事参事官、航空本部長を経て、昭和13年第2司令官として日中戦争に従軍。14年陸軍大将に昇進、16年太平洋戦争勃発とともに防衛総司令官。20年8月の敗戦後、首相として初の皇族内閣を組閣し、降伏文書調印と軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたる。しかしGHQ側の占領政策に対して調整がとれず、10月総辞職。22年皇籍を離脱し、25年には“禅宗・ひがしくに教”の教祖にまつりあげられた。著書に「一皇族の戦争日記」「やんちゃ孤独」がある。

没年月日
平成2年1月20日

家族
父=久邇宮 朝彦 妻=東久邇 聡子(明治天皇第九皇女) 長男=東久邇 盛厚(帝都高速度交通営団監事) 四男=多羅間 俊彦(ブラジル東京都友会会長) 兄=賀陽宮 邦憲 久邇宮 邦彦 久邇宮 多嘉

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20世紀日本人名事典 「東久邇稔彦」の解説

東久邇 稔彦
ヒガシクニ ナルヒコ

昭和期の皇族,陸軍大将 元・首相。



生年
明治20(1887)年12月3日

没年
平成2(1990)年1月20日

出生地
京都府京都市

別名
旧名=東久邇宮 稔彦(ヒガシクニノミヤ ナルヒコ)

学歴〔年〕
陸士〔明治41年〕卒,陸大〔大正3年〕卒

経歴
久邇宮朝彦親王第九男子。明治39年東久邇宮の称号を賜る。陸士、陸大を卒業後、大正9年からフランスに7年間留学し、自由主義の気風を身につけた。陸軍内部では皇道派と衝突し、左遷されたことも。師団長、軍事参事官、航空本部長を経て、昭和13年第2司令官として日中戦争に従軍。14年陸軍大将に昇進、16年太平洋戦争勃発とともに防衛総司令官。20年8月の敗戦後、首相として初の皇族内閣を組閣し、降伏文書調印と軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたる。しかしGHQ側の占領政策に対して調整がとれず、10月総辞職。22年皇籍を離脱し、25年には“禅宗・ひがしくに教”の教祖にまつりあげられた。著書に「一皇族の戦争日記」「やんちゃ孤独」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東久邇稔彦」の意味・わかりやすい解説

東久邇稔彦
ひがしくになるひこ

[生]1887.12.3. 京都
[没]1990.1.20. 東京
大正・昭和期の軍人,政治家。久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の第9王子。兄に賀陽宮邦憲王(かやのみやくにのりおう),久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう),梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう),朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)がいる。1906年に東久邇宮家を創設し,東久邇宮稔彦王となった。1908年に陸軍士官学校を卒業。1920~27年,フランスに留学。1937年に陸軍航空本部長となり,1938年に第2軍司令官として徐州会戦,ハンコウ(漢口)攻略戦に参加した。1939年に陸軍大将,1941年に本土防衛総司令官となった。1945年8~10月,内閣総理大臣として終戦処理にあたった。1946年公職追放,1947年に臣籍降下し,東久邇稔彦と称した。1950年に新興宗教の「ひがしくに教」を興し,一時教祖となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「東久邇稔彦」の意味・わかりやすい解説

東久邇稔彦 (ひがしくになるひこ)
生没年:1887-1990(明治20-平成2)

旧皇族,軍人。第2次大戦直後の首相。久邇宮朝彦親王の第9王子として京都で生まれる。陸軍士官学校卒業。1920年以来,フランスに7年間留学し,自由主義の気風を身につけた。陸軍の内部で皇道派と衝突,左遷された経験をもつ。敗戦直後の45年8月17日に最初の皇族内閣を組閣し,降伏文書調印,軍隊の復員・解体などの終戦処理にあたったが,占領軍との連絡調整に限界を感じ,組閣後2ヵ月で総辞職した。47年10月皇族の身分を離れた。その後,新興宗教(ひがしくに教)の教祖にまつりあげられたこともある。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東久邇稔彦」の解説

東久邇稔彦
ひがしくになるひこ

1887.12.3~1990.1.20

昭和期の元皇族・陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第九子。東久邇宮家を創立。妃は明治天皇の皇女聡子(としこ)内親王。陸軍大学校卒,1923年(大正12)フランス陸軍大学卒。軍事参議官・陸軍大将。第2次大戦後の混乱を防ぐ目的で,とくに天皇に請われて45年(昭和20)8月内閣を組織。降伏文書の調印,軍の解体などの終戦処理を実施したが,占領軍当局の急激な民主化政策に追いつけず2カ月で総辞職。47年の皇室改革で皇籍を離れ,晩年は新興宗教の開祖となるなど奔放な生活ぶりで話題をまいた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東久邇稔彦」の解説

東久邇稔彦 ひがしくに-なるひこ

1887-1990 明治-昭和時代の皇族,軍人。
明治20年12月3日生まれ。中川宮朝彦親王の王子。明治39年東久邇宮家を創立。フランスに留学。昭和14年陸軍大将,16年防衛総司令官となる。20年初の皇族首相として内閣を組織し,終戦処理にあたったが,2ヵ月で総辞職。22年皇籍離脱。平成2年1月20日死去。102歳。陸軍大学校卒。日記に「一皇族の戦争日記」「東久邇日記」。

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百科事典マイペディア 「東久邇稔彦」の意味・わかりやすい解説

東久邇稔彦【ひがしくになるひこ】

元皇族。久邇宮朝彦王の第9子。1906年東久邇宮家を創立。陸軍大学卒後フランスに留学,第2,第4師団長,陸軍航空本部長等を歴任,1939年陸軍大将となる。戦後内閣(東久邇稔彦内閣)を組織。1947年10月皇族の身分を離れた。

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367日誕生日大事典 「東久邇稔彦」の解説

東久邇 稔彦 (ひがしくに なるひこ)

生年月日:1887年12月3日
明治時代-昭和時代の皇族;陸軍軍人;首相
1990年没

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