織田純一郎(読み)オダジュンイチロウ

デジタル大辞泉 「織田純一郎」の意味・読み・例文・類語

おだ‐じゅんいちろう〔‐ジユンイチラウ〕【織田純一郎】

[1851~1919]翻訳家・批評家。京都の生まれ。旧姓丹羽にわ英国留学して法律を修めた。帰国後、翻訳小説花柳春話」で名声を得る。のち「大阪朝日新聞」などの主筆としても活動。

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朝日日本歴史人物事典 「織田純一郎」の解説

織田純一郎

没年:大正8.2.3(1919)
生年嘉永4.5.22(1851.6.21)
明治時代の翻訳家,ジャーナリスト一説に父は京都所司代与力の大塚信敬,一条家の臣若松氏,三条家の臣丹羽氏の嗣を経たのち,明治12(1879)年より織田姓,東京の昌平学校,土佐の致道館に遊学後,官費で明治3年英国エジンバラに留学。7年再び渡英,10年帰国。E.G.E.リットンの《Ernest Maltravers》の翻訳『花柳春話』(1879)は大好評を博した。以後ロンドンやパリの紹介,西洋の民権思想の紹介書などを刊行。明治18年から『朝日新聞』,陸奥宗光の『寸鉄』などに拠り,言論界で活躍,英国の外交官で日本研究家のサンソムは,彼あたりから初めてまともな翻訳が現れたと評価する。晩年は不遇のうちに京都で死去。<参考文献>柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』,G.B.サンソム『西欧世界と日本』

(加納孝代)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田純一郎」の意味・わかりやすい解説

織田純一郎
おだじゅんいちろう
(1851―1919)

翻訳家、批評家。京都で若松備前守永福(びぜんのかみながとみ)の次男として生まれた。幼名甲(幸)之助。諱(いみな)は正義。幼くして丹羽正庸(にわまさつね)の養子となり、純一郎と改名。1869年(明治2)昌平黌(しょうへいこう)に入るがまもなく高知の致遠館に転じ洋学を修めた。70年アメリカ経由でイギリスに渡りエジンバラ大学に学び、74年7月一時帰国し、三条公恭と再度渡英、法律を修めた。77年冬帰国、79年曽祖母(そうそぼ)方の織田姓を名のる。78年4月リットンの小説による『欧州奇事花柳春話』で翻訳文学に新紀元を開く。『通俗日本民権真論』(1879)など外国体験に根ざす政治評論にも筆を振るう。

[富田 仁]

『柳田泉著『明治初期翻訳文学の研究』(1959・春秋社)』

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百科事典マイペディア 「織田純一郎」の意味・わかりやすい解説

織田純一郎【おだじゅんいちろう】

翻訳家,新聞記者。京都生れ。本姓若松。旧姓丹羽。1878年,E.G.リットンの小説の翻訳《花柳春話》の成功で文名を確立,1879年―1880年,リットンの《ポンペイ最後の日》を翻訳して《寄想春史》を刊行。1885年より《朝日新聞》の主筆,1891年―1892年,新聞《寸鉄》の社長を務めた。《竜動新繁昌記》《いさ子》などの翻訳,《通俗民権真論》《大阪紳士》《政治家社会》などの著書がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田純一郎」の解説

織田純一郎 おだ-じゅんいちろう

1851-1919 明治時代のジャーナリスト,翻訳家。
嘉永(かえい)4年5月22日生まれ。イギリスに留学。帰国後の明治11年翻訳したリットンの「欧州奇事花柳春話」がベストセラーとなる。18年大阪朝日新聞の主筆。のち陸奥宗光の「寸鉄」,板垣退助らの「社会新報」の主筆をつとめた。大正8年2月3日死去。69歳。京都出身。本姓は大塚。旧姓は丹羽。著作に「通俗日本民権真論」など。

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367日誕生日大事典 「織田純一郎」の解説

織田 純一郎 (おだ じゅんいちろう)

生年月日:1851年5月22日
明治時代の翻訳家;新聞記者。大阪朝日新聞主筆
1919年没

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