コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

羽仁五郎 ハニゴロウ

6件 の用語解説(羽仁五郎の意味・用語解説を検索)

デジタル大辞泉の解説

はに‐ごろう〔‐ゴラウ〕【羽仁五郎】

[1901~1983]歴史学者。群馬の生まれ。旧姓、森。羽仁もと子の娘婿。唯物史観の立場から明治維新を研究。野呂栄太郎らと「日本資本主義発達史講座」の刊行に参加・執筆。第二次大戦後は広く文明批評家として活躍。参議院議員。著「ミケルアンヂェロ」「都市の論理」など。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

羽仁五郎【はにごろう】

歴史学者。旧姓森。群馬県生れ。東大卒,ハイデルベルク大でH.リッケルトに学ぶ。1926年に羽仁説子と結婚。1928年日大教授となり,三木清マルクス主義理論雑誌《新興科学の旗の下に》を創刊,1929年プロレタリア科学研究所の創設に参加するなど,反ファシズムの立場をとり,1933年,1945年の2度にわたって検挙される。
→関連項目羽仁進

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

羽仁五郎 はに-ごろう

1901-1983 昭和時代の歴史学者。
明治34年3月29日生まれ。社会運動家・羽仁説子の夫。子に映画監督羽仁進,わらべうた教育研究家・羽仁協子。東京帝大史料編纂(へんさん)掛をへて,昭和3年日大教授となる。三木清らとプロレタリア科学研究所をつくり,反ファシズムの姿勢をつらぬく。戦後,参議院議員となり国立国会図書館の創設などにつくす。昭和58年6月8日死去。82歳。群馬県出身。東京帝大卒。旧姓は森。著作に「明治維新史研究」「都市の論理」など。

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

はにごろう【羽仁五郎】

1901‐83(明治34‐昭和58)
歴史家。群馬県桐生の素封家に生まれる。1921年東京帝国大学法学部を中退し渡欧,ハイデルベルク大学でH.リッケルト歴史哲学を学んだ。24年帰国,東大史学科に再入学,26年羽仁説子と結婚し,森から羽仁姓に改姓する。27年《佐藤信淵の基礎的研究》を書いて卒業。東大史料編纂所嘱託を経て,日大教授となり,史学科を創設。28年三木清と雑誌《新興科学の旗の下に》創刊,29年プロレタリア科学研究所の創設に参加。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

はにごろう【羽仁五郎】

1901~1983) 歴史家。群馬県生まれ。東大卒。もと子の娘婿。三木清らと雑誌「新興科学の旗の下に」を創刊。また「日本資本主義発達史講座」の明治維新史を執筆。この間二度逮捕・拘留。第二次大戦後参議院議員。著「ミケルアンヂェロ」「都市の論理」など。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

羽仁五郎
はにごろう
(1901―1983)

歴史学者。明治34年3月29日、群馬県桐生(きりゅう)市の織物業者森宗作の五男として生まれる。1921年(大正10)東京帝国大学法学部に入学するが3か月で中退。翌22年、リッケルトの歴史哲学を学ぶためにドイツのハイデルベルク大学に留学し、24年に帰国して東京帝国大学文学部国史学科に再入学した。26年に羽仁説子(せつこ)と結婚、羽仁の姓を名のる。27年(昭和2)に大学を卒業し、翌年三木清とともに『新興科学の旗のもとに』誌を創刊、29年にはプロレタリア科学研究所の創立に参加し、マルクス主義歴史理論の建設に努める。『転形期の歴史学』(1929)、『歴史学批判序説』(1932)などの論集はその努力の結実したもので、こうして羽仁はわが国で初めて唯物史観を基礎とするマルクス主義歴史理論体系を樹立したのである。
 1932年5月から刊行された『日本資本主義発達史講座』には、明治維新にかかわる多数の論文を執筆、同時に『史学雑誌』にも「東洋における資本主義の形成」(1932)を発表した。これらの仕事のなかで羽仁は明治維新の世界史的位置づけを行い、その原動力が農民や町人の闘いにあること、明治維新の本質が民主主義革命の未完成にあり、それゆえに専制的な天皇制が成立したことを、豊富な根本史料を駆使しながら明らかにした。これはその後の維新史研究に強い影響を与えており、その史学史的意義は大きい。33年9月に治安維持法違反容疑で逮捕されるが、12月に出獄し、それ以後も「明治維新」(1935)、『ミケルアンヂェロ』『クロオチェ』(ともに1939)などを執筆し、反戦・反ファシズムの立場から思想的抵抗を繰り広げた。しかし45年3月には北京(ペキン)でふたたび逮捕され、敗戦後の9月に自由を回復した。
 戦後は文明批評家、社会運動家としても多面的な活動を展開した。1947年(昭和22)の第1回参議院議員選挙では全国区から無所属で立候補して当選、56年まで同議員を務め、国立国会図書館の創設などに尽力した。また49年から51年まで学術会議会員として、「学問思想の自由の保障の委員会」の委員長を務めた。なお60年代末の大学紛争時に刊行した『都市の論理』(1968)は、学生たちに大きな影響を与えた。昭和58年6月8日死去。[山田敬男]
『『羽仁五郎歴史論著作集』全四巻(1967・青木書店) ▽羽仁五郎著『自伝的戦後史』(1976・講談社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の羽仁五郎の言及

【新興科学の旗の下に】より

…三木清,羽仁五郎らによって,1928年10月創刊された月刊理論雑誌。マルクス主義理論の研究を中心とし,執筆者には三木,羽仁のほか,本多謙三,高島善哉,奈良正路らがいる。…

【マルクス主義】より

…これに対して,〈27年テーゼ〉と共産党とに対立する山川,堺らは,雑誌《労農》を創刊(1927)し,非共産党マルクス主義者の集りとして労農派と称された。そのころ,3年にわたるヨーロッパ留学から帰国した哲学者三木清は,雑誌《思想》に《人間学のマルクス的形態》など独自の視点で一連のマルクス主義〈哲学〉に関する論文を発表し,学界や知識人・学生に広範な影響を与え,また羽仁五郎とともに雑誌《新興科学の旗の下に》を創刊(1928)して,マルクス主義を学問の公共圏に導入した。このように,マルクス主義は多くの知識人・芸術家をひきつけ,昭和初年のころには政治と学問・思想,文芸の世界でもっとも大きな力をもった思想となった。…

※「羽仁五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

羽仁五郎の関連キーワード朝鮮映画正岡子規公益質屋国歌大観細雪ANRIダイハツCLエンジンスペイン映画PAPI三宅島

今日のキーワード

稀勢の里寛

1986- 平成時代の力士。昭和61年7月3日生まれ。中学卒で鳴戸部屋に入門し,平成14年3月初土俵。16年5月新十両,同年11月には18歳4ヵ月で新入幕をはたす。18年7月新三役小結,21年3月新関...

続きを読む

コトバンク for iPhone

羽仁五郎の関連情報