羽生村(読み)はにうむら

日本歴史地名大系 「羽生村」の解説

羽生村
はにうむら

[現在地名]美山町南宮地みなみみやじ大宮おおみや縫原ぬいばら薬師やくし川上かわかみ計石はかりいし野波のなみ仁位にい間戸まと

飯降いいふり(八八四・三メートル)に発し、西流して足羽川に合流する羽生川の河谷に沿う諸村の総称。東は飯降山系を境に大野盆地、北は芦見あしみ谷、南は味見あじみ谷、西方は境寺さかいでら村。中世は比叡山延暦寺の別所無動むどう寺領羽丹生はにう庄の地、朝倉氏時代は平泉へいせん(跡地は現勝山市)の所領であった。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には大野郡中に「羽丹生村」と記され、高二三二九・九七七石。正保郷帳で次の九ヵ村に分村する。すなわち羽生川上流から宮地・大宮・縫原・絵戸えんど、支流の上流から河上かわかみ・計石、中流に野波、縫原の北の山間に二位にい、絵戸から東南の山間奥地に間戸である。

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]玉造町羽生

霞ヶ浦沿岸にあり、北は沖洲おきす村、東は捻木ねじき村。沖洲村と同じく古代は「和名抄」にいう茨城郡立花たちばな郷に属したとされる(常陸誌料郡郷考)たちばな郷は承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)に「可令鹿島社神領橘郷事」とあり、国司高階経仲は、鹿島神宮の日次御供の不足を補うため橘郷の官物・雑役等を免除し、鹿島神宮大禰宜中臣則親に知行させた。橘郷は翌安元元年(一一七五)に南郡郡司下妻広幹の乱妨を受け、元暦二年(一一八五)八月二一日には、志田義広の乱で広幹に代わった南郡惣地頭下河辺政義が郷内百姓妻子等に地頭の支配に服すとの起請文を書かせた(「源頼朝下文」同文書)。建仁二年(一二〇二)には国井政景が当郷地頭に補任され、預所である中臣政親との間に両者の権利の範囲をめぐって相論が起こり、元久二年(一二〇五)八月二三日に政景の地頭職は停止され、代わって政親が地頭職を兼ねた(同文書など)

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]大郷町羽生

大谷おおや郷の中部、吉田川の南岸に位置する。東境を味明みあけ川が北流し吉田川に合流。北半分が平地、南は丘陵、東と西に平坦な台地が北に向かって吉田川の氾濫原に突出している。北・西は糟川かすかわ村、東は山崎やまさき村、南は味明みやけ村・なか村。道は隣村への小道が通じているのみである。集落は西と東の両突出台地上に集中している。古代は品井しない沼が台地の裾まで広がり、しだいに湿原と化して中世には高い部分の谷地が開発されるようになったものであろう。「余目記録」に永正一一年(一五一四)「当国諸郡に神領あり(中略)大谷保羽生よりハ、七月御神事にあふ屋代・同御へいかみあがる」とあり、七月の塩竈神社の神事に神輿の旅所と御幣紙を奉納したという。

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]富加町羽生

川浦かわうら川左岸と詰田つめた川右岸に挟まれた平坦地に位置。古代には条里制が布かれていた。南は今泉いまいずみ村・市橋いちはし村・鷹之巣たかのす(現美濃加茂市)、西は高畑たかはた村、北は滝田たきだ村。羽生は埴土(粘土)の出る土地という意味かと思われ、この辺りは現在も粘土を多く産出する。大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)に「加毛郡半布里」とあり、「和名抄」では埴生はにゆう郷とある。文明一四年(一四八二)一〇月二八日には室町幕府御料所として「羽丹生郷」の名前があり(「室町幕府奉行人連署奉書案」蜷川家古文書)足利義政東山山荘(銀閣寺)造営の経費捻出のため、年貢を厳密に執行するよう命じられている。

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]桜川村羽生

堀之内ほりのうち村の西に位置し、小野おの川河口に面する。元禄一六年(一七〇三)九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(舟串家文書)に「古来より霞浦四拾八津其外小津共百ケ津余御座候」とあって「小津羽生村長兵衛」の名がみえ、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)にも村名がある。弘化二年(一八四五)八月の一札之事(永長家文書)によれば「溜池樋口之上池下之上本樋口脇」を柏木かしわぎ村の者が切落したことに関して、扱人惣代として「羽生村名主藤右衛門」のほか二村の名主が署名している。嘉永六年(一八五三)七月の乍恐以書付密ニ奉願上候(同文書)によれば、名主作右衛門が強欲で、困窮人が春に納める年貢の先納金を高割でなく、分限割にするよう訴えるが聞入れなかったため、やむなく割付ける旨訴えている。

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]水海道市羽生町など

鬼怒きぬ川西岸に所在。岡田おかだ台地上の台羽生だいばにゆうと低地の下羽生したばにゆうからなる。南は横曾根よこぞね村。西部に弘経ぐぎよう寺がある。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「羽生之郷 廿五貫ミねんく 夫銭六貫文 七十五俵 斗物夏秋ニ ほりの内面三貫文」とみえ、字堀之内ほりのうちは戦国土豪羽生氏の拠った所。羽生氏は横曾根村にも城をもち、「多賀谷旧記」に「羽生式部大夫横曾根城主ナリ及報恩寺平太郎報恩寺城主西ノ門徒ナリ帰服スル」とある。

「寛文朱印留」に「弘経寺領、下総国岡田郡羽丹生(ママ)村之内百石」などとあり、寛文五年(一六六五)に村高のうち一〇〇石が弘経寺の領地となったが、他は天領か旗本知行地であったと考えられる。

羽生村
はにゆうむら

[現在地名]糸魚川市羽生

うみ川下流の氾濫原上にあり、対岸は成沢なりさわ村、下流は平牛ひらうじ村で、水保みずほ村への道が南北に通る。戦国期に托鉢僧により開かれたとも伝え、村内に大僧屋敷たいそうやしき寺田てらだの地名がある。現地では「はんにょ」と発音する。正保国絵図に高一一二石余と記す。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高二四二石三斗余とある。天和三年郷帳では高二三〇石六斗余、うち山高八斗三升・漆高二升五合とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報