羽田村(読み)はねだむら

日本歴史地名大系 「羽田村」の解説

羽田村
はねだむら

[現在地名]大田区本羽田ほんはねだ一―三丁目・羽田一―六丁目・羽田空港はねだくうこう二丁目・羽田旭町はねだあさひちよう南六郷みなみろくごう一丁目

雑色ぞうしき村の東、六郷ろくごう(多摩川)河口左岸の低地に立地。古くから漁猟が盛んで猟師町が形成されていた。また周辺低湿地帯の新田開発も活発に行われ、江戸時代後期―末期には鈴木すずき新田・源太郎げんたろう新田・増田ますだ新田が成立している。東海道から分岐し、当村を経て川崎かわさき大師(現神奈川県川崎市川崎区平間寺)へ至る道(羽田道)があり、六郷川は羽田渡で渡河した。戦国期には北条氏に軍港として重視された。永禄四年(一五六一)と推定される酉九月一七日の北条家朱印状(森文書)の宛所に「羽田代官・百姓・船持中」とみえる。羽田浦は北条家直轄の重要な港湾で、羽田代官が任命されていたが、北条氏政が北武蔵へ出兵するにあたり、玉縄たまなわ(現神奈川県鎌倉市)城主北条綱成が留守中の海上警固のために、羽田浦からは東海船(外洋船)三艘と船方(水主)一艘に六人(計一八人)を一五日間徴発させ、もし従わなければ奉行(綱成の代官森氏か)に船方・船を搦め取るように命じている。翌五年八月三日、羽田浦ではそれまでの厳しい負担によって衰亡していることが認められ、この年は船方役を船二艘・船方七人に軽減されている(「北条家朱印状」潮田文書)


羽田村
はねだむら

[現在地名]佐野市上羽田町かみはねだちよう下羽田町しもはねだちよう

渡良瀬川の北岸、さい川の右岸に位置する。北は免鳥めんどり村。足利郡に属する。嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状并寺領注文案(長楽寺文書)に「下野国羽田郷」とみえ、郷内の名田畠が弘願くがん(現群馬県館林市の龍興寺の前身か)に寄進されている。至徳四年(一三八七)六月五日には前年挙兵した小山若犬丸を追討する関東公方足利氏満の軍が当地に陣を張っている(同年八月日「嶋津政忠軍忠状」嶋津文書)。永禄五年(一五六二)五月に上杉謙信は上野館林城を占拠して足利の長尾景長に預け、景長は二月末館林城に移っている。同年四月五日には稲垣新三郎へ羽田郷内の三五貫文の地を宛行い(「長尾景長充行状」織田文書)、館林城移入に伴う家臣団再編を行っている。同一三年二月二八日の上杉輝虎知行充行状写(歴代古案)に佐野筑前守・小安隠岐守に対し「館林領之内羽根田郷・飯富郷」が宛行われたと記されており、当郷は館林領と認識されていたことがわかる。しかし天正一九年(一五九一)七月二四日には「羽田水代」三〇貫文が高瀬紀伊守へ宛行われており(「天徳寺宝衍佐野房綱充行状」山崎文書)、この頃までに佐野氏の支配下に入ったのであろう。


羽田村
はねだむら

[現在地名]川俣町羽田

女神めがみ川の上流に位置し、南は松沢まつさわ村、大久保おおくぼ(現飯野町)、北は秋山あきやま村。集落は女神川・八幡はちまん川流域に散在する。東の小神こがみ村境から当村の中央を福島に至る街道が通り、秋山村大波おおなみ(現福島市)に向かう。村名は大和三笠みかさ山から春日の神霊が白鷺となって飛来し、その鷺の羽の落ちたのが田であったことに由来するという(「小手風土記」川俣町史資料)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根だてひがしねのうちとして「はね田」とあり、段銭は一七貫三〇〇文。当地の地頭に羽田氏がいたとされるが(「羽田氏系図」羽田家文書)、天文の乱で所領を没収されたと考えられている(川俣町史)


羽田村
はだむら

[現在地名]豊橋市花田はなだ町・花田・松葉まつば・羽田町

吉田よしだ城の南西、吉田宿と牟呂むろ村の間に位置する。「和名抄」所載渥美郡内の「幡太」郷および「神鳳鈔」所載のはた御園はこの地一帯に比定されている。また「吾妻鏡」建久五年(一一九四)一〇月一七日条に「歯御療治事、頼基朝臣注申之、其上献良薬等、藤九郎盛長伝進之、彼朝臣者、参河国羽渭庄、為関東御恩、所領知也」とある羽渭はい庄をこの地とも灰野はいの(現宝飯郡御津町)ともされている。近世初めは吉田方五ヵ村の一。

村域内羽田八幡社は、社伝に白鳳元年の創立と伝える。永禄四年(一五六一)の羽田神主宛の今川氏真安堵状(湊神明社蔵)は、「参州吉田神明神田之事」と併記して、

<資料は省略されています>

とある。


羽田村
はんだむら

[現在地名]大田原市羽田

東半分は那珂川西岸の乏水性の平地、西半分は丘陵地からなり、集落は丘陵の麓にある。丘陵中の窪地に長者ちようじや(現羽田沼)があり、丘陵裾から上堂かみどう川の水源の清水が流れる。西は乙連沢おとれざわ村、北は野間のま(現黒磯市)、東は寒井さぶい(現那須郡黒羽町)、南は檜木沢ひのきざわ(現同上)。北西端を奥州街道が通る。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「羽田」がみえ、藤賀多輪ふじかたわ・野間とともに三五八石七升とある(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)


羽田村
はだむら

[現在地名]大分市羽田・ふじだい

下郡しもごおり村から肥後街道沿いに南に続く村。豊後国弘安図田帳に津守つもり庄一七〇町のうちとして「岩屋二十町九歩 地頭職御所女房輔御局」とある。岩屋いわやは当地の字に比定される。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状は地頭を領主と記す。地頭御所女房輔御局は、大友親秀と後室二条親兼の娘との間に生れた人物と考えられている。正保郷帳に村名がみえ田高二六四石余・畑高一一三石余、津守庄に所属。


羽田村
はたむら

[現在地名]日田市羽田 羽田町

有田ありた川の上流域に立地し、西は諸留もろどみ村。地内両組りようぐみ大山祇神社の保管する文明一五年(一四八三)銘の棟札に「日田郡在田郷羽田村 大蔵氏伯耆守繁義」とある。ここにみえる大蔵氏は庄屋となり、財津氏を称したという(寛文一〇年棟札)。慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に村名がみえ、高六一六石余。正保郷帳では田高三五九石余・畑高一八七石余で、有田郷に属した。柴山有とある。天保郷帳では古くは羽田村・岩下いわした村二ヵ村とある。寛政(一七八九―一八〇一)末年当時の年貢率は七組で異なり、田方では羽田組・熊野尾組が八ツ五分五厘、馬尻組が五ツ、姫椿組・高花組が四ツ八分、畑方では熊野尾組・本谷組が七ツ、羽田組・姫椿組・高花組が六ツ、馬尻組・寿の原組が三ツ六分となっている(三郡記)


羽田村
はねだむら

[現在地名]相川町羽田村

相川南郊に位置する。南は海士あま町、西は下戸おりと町、北側は四丁目。古くは、鉱山町として成立する旧相川町の全域をさした。慶長五年(一六〇〇)の検地帳(佐渡故実略記)に「佐州海府之内羽田村金山町当起」とあり、中使は孫左衛門。苅高三千四二四束、ほぼ三町余の田地をもち、海岸沿いに北へ延びる海府二四浦とよばれた各村々のなかでも、最高の苅高をもつ。台地上の上相川かみあいかわ南沢みなみざわ上流にかきうちの地字が残り、古くはこの付近に集落が形成されたと思われる。「佐渡相川志」によると「往古ハ今ノ羽田ノ処ヲ羽田村ト名ツケ農家十四、五軒アリ」とし、鉱山町が誕生すると南郊の現在地へ強制移転させられ、羽田村および下戸町を形成する。


羽田村
はねだむら

[現在地名]巻町羽田

西にし川左岸の自然堤防上の村落。北は西にしゆりあげ(現西川町)に接し、東方は西川を隔てて東ゆり上村に対する。西方は水田を隔てて仁ヶにか村に隣接する。元禄郷帳によれば羽田新田村とあり、西ゆり上村枝郷で村高は一二六石七斗余。この高は明治まで変わらなかった。元禄一一年(一六九八)の榊原式部大夫殿領分四万石拾ケ組絵図面(霜鳥家文書)では三根山領。安政二年(一八五五)三根山領年貢納高(「三根山藩」所収)によれば、取米は二六石七斗余、永引・定引合せた引高三石九斗余、納高二二石八斗余で取米率は二割に満たない。


羽田村
はねだむら

[現在地名]大和村羽田

桜川左岸、羽田山西麓にあり、南は阿部田あべた村。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。慶安三年(一六五〇)に検地が行われ、田二二町四反九畝五歩・分米二五〇・一七二石、畑三九町四反二畝一歩・分米二八〇・四五四石、田畑総計六一町九反一畝六歩・分米総計五三〇・六二六石であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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