豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略の際、日本軍が朝鮮人の鼻をそいで持ち帰り、埋めて築いた塚。鼻塚ともよぶ。京都市東山区茶屋町、方広(ほうこう)寺の西にある。朝鮮侵略において日本軍が相手の首のかわりに耳や鼻をとって秀吉のもとに送ったことは、第一次侵略(文禄(ぶんろく)の役)の際にも部分的にみられた。しかし、朝鮮南部を実力で奪おうとした第二次侵略(慶長(けいちょう)の役)では、鼻切りが激しくなった。秀吉は日本に首塚をつくるため、非戦闘員である老若男女から賤民(せんみん)に至るまでなで切りにしてその首を送れと指示した。日本軍は秀吉の指示に従って功名をあげるため鼻切りを行った。首のかわりに鼻を切ったのは、首が重かったことと、鼻切りが相手をもっとも侮蔑(ぶべつ)した行為だったことによる。日本軍は鼻を塩などに漬けて秀吉のもとに送った。その際、軍目付(いくさめつけ)が諸大名ごとに鼻数を点検して請取状を出し、また、諸大名は鼻切りをした家臣に請取状を出して鼻切りを競わせた。加藤清正などは家臣1人に鼻三つを割り当てている。それゆえ、この残虐行為は惨を極めた。1597年(慶長2)9月、秀吉のブレーン西笑承兌(さいしょうしょうたい/しょうだ)は鼻塚供養の施餓鬼(せがき)の際、その卒都婆(そとば)に「大明・朝鮮闘死の衆」を弔うと記した。しかし、犠牲者の多くは非戦闘員であり、鼻塚の施餓鬼は虚構の供養であった。
[北島万次]
『琴秉洞著『耳塚』(1978・二月社)』▽『北島万次著『日記・記録による日本歴史叢書 近世4 朝鮮日々記・高麗日記――秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発』(1982・そしえて)』
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京都市東山区茶屋町(方広寺西側)にある塚(実は鼻塚)。慶長の役の際,豊臣秀吉は首級のかわりに鼻をそいで戦功の証にすることを命じた。諸大名は家臣に鼻切りを強制,その鼻を塩漬にして秀吉のもとへ送った。1597年(慶長2)9月,秀吉は僧西笑承兌(せいしょうじょうたい)を導師として「大明・朝鮮闘死の衆」の供養を行ったが,鼻切りは老幼男女の非戦闘員にまで及び,朝鮮民族の間では壬辰(じんしん)の悪夢として刻みこまれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…なお1614年梵鐘が鋳造されたが,鐘銘の〈国家安康〉の文字がきっかけとなって,大坂の陣に発展した鐘銘事件は有名。方広寺の門前,正面通南側にある耳塚は,文禄の役で殺した朝鮮人の首級の代りに持ち帰った耳,鼻を秀吉が確認後,葬ったものとされる。【細溝 典彦】。…
…いわゆる〈耳なし芳一〉の話がこれである。また,源頼義が前九年・後三年の役で死亡した者の片耳を切り取って皮籠に入れ,埋めた上に耳納堂を建立したというが(《古事談》),文禄の役ののち,首級の代りに持ち帰った耳を葬ったという方広寺門前の耳塚なども,よく知られる。イエスが捕らえられたとき,弟子ペテロは大祭司の僕(しもべ)マルコスの右耳を剣で切り落とした(《ヨハネによる福音書》18:10)が,イエスは制止してマルコスの耳に手を触れてこれを治している(《ルカによる福音書》22:51)。…
※「耳塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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