方広寺(読み)ホウコウジ

デジタル大辞泉 「方広寺」の意味・読み・例文・類語

ほうこう‐じ〔ハウクワウ‐〕【方広寺】

京都市東山区にある天台宗の寺。天正17年(1589)豊臣秀吉が奈良東大寺大仏を模して創建。開山は木食応其もくじきおうご。大仏と大仏殿は焼失し、現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼が残る。豊臣家滅亡のきっかけとなった「国家安康」の銘を記した釣鐘で有名。通称、大仏殿。
静岡県浜松市浜名区にある臨済宗方広寺派の大本山。山号は、深奥山。奥山朝藤が寺地を寄進し、元中元年=至徳元年(1384)に創建。開山は無文元選。防火に霊験ある半僧坊大権現が祭られる。奥山半僧坊。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「方広寺」の意味・読み・例文・類語

ほうこう‐じハウクヮウ‥【方広寺】

  1. [ 一 ] 静岡県浜松市引佐町奥山にある臨済宗方広寺派の大本山。山号は深奥山。元中元年(一三八四)地頭奥山朝藤の創建。開山は無文元選。後陽成天皇勅願所。奥山半僧坊。
  2. [ 二 ] 京都市東山区茶屋町にある天台宗の寺。天正一四年(一五八六)豊臣秀吉が創建。開山は木食応其。奈良東大寺にならい、木造の大仏を作ったが、慶長元年(一五九六)の大地震でつぶれた。同一四年秀頼が徳川家康の勧めで金銅仏および大鐘も鋳造したが鐘銘の句に「国家安康」の字があり、大坂の陣の口実とされた。大仏殿。京都大仏。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「方広寺」の解説

方広寺
ほうこうじ

[現在地名]東山区茶屋町

正面しようめん通の東端、豊国とよくに神社に南接する。山号はなく、天台宗。近世には妙法みようほう院の支配下にあり、大仏殿ともよばれる。昭和四八年(一九七三)近年の火災で大仏殿は焼失、鐘楼と鐘のみを残す。石塁および石塔は国指定史跡。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔秀吉の発願〕

羽柴(豊臣)秀吉は京都に大仏建立を思い立ち、天正一四年(一五八六)四月一日、京都より大坂への帰途、造営の地を「東福寺近傍」に選定したが(「兼見卿記」・遠藤義一氏所蔵文書)、これは現在地より南方の地にあたる。四月二二日には早くも藤堂高虎はじめ諸大名に用材の諸国運上を命じ(高山公実録)、八月には大仏作事のため明の工匠、古道が肥前松浦まつら(現佐賀県)より京都に召出された(松浦文書)。しかしその後計画は中止されたもようで、工事の再開は天正一六年である。場所は蓮華王れんげおう(三十三間堂)北側に変更され、「多聞院日記」同年五月一二日条には、秀吉らしいはでな工事の様子が「京ニハ大仏建立トテ、石壇ヲ(積)ミ土ヲ上テ、其上ニテ洛中上下ノ衆ニ餅酒下行シテヲト(踊)ラセラルゝ、事ゝ敷フシン(普請)也云。西国ヨリ柱モ少出云々」と記される。餅酒下行は上京・下京の町衆たちが、「酒ヲ車ニ積、笛・大鼓・囃し物、踊りニて、上京より人数弐千、下京よりも弐千人、其外老若罷出、運送」し、普請の衆にふるまったもので(上下京町々古書明細記)、踊も洛中の各組を通じ各戸当り四七文ほどの費用が割当てられている(立売組十四町与惣町大仏殿御おとり入目)。五月一五日には定礎の儀が行われた(言経卿記)。七月五日の豊臣秀吉朱印状(豊公遺文)で諸大名に人足の動員が命ぜられたが、翌一七年一一月までの一三ヵ月間については二八の大名を月別に編制し、一ヵ月間四〇〇―一万人の人足を普請手伝いにあたらせ、この期間に総計六万二千一二〇人が徴用されるという人海戦術であった。秀吉は「昔は二十年に造畢せしとなん、今度は五年に成就し侍るやうに、工夫を廻し可相計之旨」(太閤記)を五人の奉行に命じたという。しかし小田原の役などで遅れ、同一九年五月二〇日に立柱式が行われた(言経卿記)。勧修寺晴豊は二五日に工事現場を訪れ、なおも続く立柱の作業に「大仏のはしら立也、一本立、事外大儀なる音也、見物共有之也」と記している(晴豊記)。工事の遅れを取戻すため計画を一部変更、大仏の材質を当初の銅から漆膠に改め、作事奉行にはこの頃から高野山の木食応其があたっている。


方広寺
ほうこうじ

[現在地名]引佐町奥山

奥山おくやま地内の北部中央に位置する臨済宗方広寺派の本山。深奥山と号し、本尊は釈迦三尊。境内に半僧坊はんそうぼう大権現を祀り、周辺に多くの塔頭がある。

〔中世〕

井伊氏一族の奥山朝藤(法名是栄)が後醍醐天皇の皇子である無文元選を招いて開山としたのが当寺の始まりである(無文選禅師行業・無文元選禅師行状)。開創年代については、応永二六年(一四一九)一一月一日の京都天龍寺岐陽方秀撰文の遠江州深奥山方広寺法宝輪蔵記(天龍寺文書)の「遠江方広寺至徳初無文選公居之」を根拠にした至徳元年(一三八四)説と、一超碩麟校訂の「奥山無文大師行状」による応安四年(一三七一)説がある。また同六年七月に三光国師孤峯覚明の法嗣無言叟智訥(古剣智訥)が無文元選像(方広寺蔵)に「托開千聖宅 把定仏祖関 看面目也無 背面高居方 広絶塵寰」と賛を加えているが、文中に方広とあることから、この時すでに開創されていたとする説もある。無文元選は元亨三年(一三二三)洛西梅津うめづ(現京都市右京区)で誕生、暦応三年(一三四〇)京都建仁けんにん寺で出家得度し、建仁寺住持可翁宗然に親炙した。康永二年(一三四三)に入元し、建寧府の大覚妙智寺の古梅正友に嗣法、天台山や盧山を歴訪後、観応元年(一三五〇)帰朝した。

当寺には無文の名を慕って多くの僧が集まったといわれ、嘉慶二年(一三八八)二月一五日には大聖だいしよう(現相良町)奇峰祖玄の三十三回忌、康応元年(一三八九)八月二〇日には鎌倉建長寺の大拙祖能の十三回忌の仏事が当寺で修されている(前掲禅師行状)


方広寺
ほうこうじ

[現在地名]三田市末吉 佐伯

末吉すえよしの東端の山裾にある黄檗宗の寺院。大覚山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝によると延宝七年(一六七九)麻田藩主青木重兼が幽寂な当地に布木ふき村の岩井いわい寺を移転して、寺領高六四石・山林三〇町を寄進し、山城宇治萬福まんぷく寺を模して七堂伽藍を築き、木庵を開山として寺号を方広寺とした。重兼は端山と号して僧籍を継ぎ、天和二年(一六八二)山内の庵で没した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「方広寺」の意味・わかりやすい解説

方広寺(静岡県)
ほうこうじ

静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町奥山にある臨済(りんざい)宗方広寺派大本山。深奥山(じんのうざん)と号し、通称は奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)。本尊は釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)。1371年(応安4)(1384年(元中1・至徳1)の説もある)奥山六郎次郎朝藤(ちょうとう)が土地を寄進し、後醍醐(ごだいご)天皇の遺児といわれる無文元選(むもんげんせん)(聖鑑(しょうかん)国師)を第1世にしたと伝える。1903年(明治36)南禅寺派より独立して末寺180余寺をもつ大本山となった。境内は中国天台山方広寺に似せて造営されたといわれるが、たび重なる火災でおもな堂塔は焼失、現在の本堂、開山堂などは明治以降の建造で、七尊菩薩(ぼさつ)堂(国重要文化財)だけが室町時代初期のものである。寺宝には木造釈迦如来および両脇侍(きょうじ)像3躯(く)、絹本着色無文元選像(以上、県文化財)などがある。また境内の半僧坊権現(ごんげん)社は火伏せの霊験で名高い。

[菅沼 晃]



方広寺(京都市)
ほうこうじ

京都市東山区茶屋町にある天台宗の寺。通称大仏殿、京都大仏とよばれ、山号はない。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の発願によって着工、1589年完成。開山は木食応其(もくじきおうご)。漆を塗り金箔(きんぱく)を置いて彩色された木造毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)が大仏殿に安置されたが、1596年(慶長1)の大地震により倒壊した。秀吉の死後、1610年に徳川家康が追善供養のため豊臣秀頼(ひでより)に勧めて金銅大仏を再興させたが、1662年(寛文2)の地震により倒れ、この像は寛永(かんえい)通宝に改鋳されて文銭(ぶんせん)、大仏銭ともよばれた。1664年には徳川氏により木造大仏がつくられたが、これも1798年(寛政10)の雷火により焼失、1843年(天保14)に人々の寄進によってつくられた木造半身大仏も1973年(昭和48)に火災で焼失し、現在は本堂、大黒天堂、大鐘楼を残すのみである。

 大鐘楼に据えられた梵鐘(ぼんしょう)(国重要文化財)は、1614年に京都三条釜座(かまんざ)の名古屋三昌によって鋳造されたもので、鐘銘の「国家安康、君臣豊楽」が徳川家に不吉の文であると曲解、讒言(ざんげん)されたことにより大坂冬・夏の陣が起こされ、豊臣家滅亡の因縁となった。境内には前田加賀守(かがのかみ)奉納の泣石(なきいし)、秀吉の朝鮮遠征帰国の供養塔という耳塚(みみづか)などがある。

[中山清田]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「方広寺」の意味・わかりやすい解説

方広寺【ほうこうじ】

京都市東山区茶屋町に豊国(とよくに)神社と並んで建つ。豊臣秀吉が創建した天台宗の寺院。16世紀末の完成。大仏殿には6丈の木像大仏が安置され秀吉の権勢を示していたが1595年の大地震で倒壊。1614年子の秀頼が再興,梵鐘(ぼんしょう)の銘に〈国家安康〉の文字があったことから,徳川家康に追及されて大坂の陣が起こった。秀頼再興の大仏は金銅仏であったが,1662年の地震で壊れたため木造で建て替えられた。しかしそれも1798年大仏殿に落雷,出火して焼失。その後は仮堂に半身像(木像)が安置されていたが,1973年出火で堂宇とともに焼亡した。豊国神社は1880年当寺境内(けいだい)をさいて再興。門前に耳塚(みみづか)がある。
→関連項目柏原宿五条大橋鐘銘事件

方広寺【ほうこうじ】

静岡県引佐(いなさ)町(現・浜松市)にある臨済宗方広寺派本山。本尊釈迦如来。1384年奥山(おくやま)朝藤(ともふじ)を開基とし,無文元選(むもんげんせん)を開山として創建。境内にまつられる鎮守の半僧坊(はんそうぼう)権現は火伏の霊験で知られ,奥山半僧坊として信仰される。
→関連項目北[区]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「方広寺」の意味・わかりやすい解説

方広寺 (ほうこうじ)

京都市東山区にある天台宗の寺院。大仏殿とも呼ぶ。豊臣秀吉の創建で1595年(文禄4)完工。6丈(約18m)木製金漆塗座像大仏が安置されたが96年(慶長1)地震のため大破し,98年秀吉の死後,秀頼は復興を命じ,1612年銅像大仏が落成。大仏は62年(寛文2)の地震で再び小破したので木像に造り替えられたが,1798年(寛政10)雷火のため大仏,本堂,楼門が焼失した。天保年間(1830-44)に尾張国の有志が半身の像を造り,仮堂に安置したが,1973年火災で焼失,現在は鐘楼と鐘のみを残す。なお1614年梵鐘が鋳造されたが,鐘銘の〈国家安康〉の文字がきっかけとなって,大坂の陣に発展した鐘銘事件は有名。方広寺の門前,正面通南側にある耳塚は,文禄の役で殺した朝鮮人の首級の代りに持ち帰った耳,鼻を秀吉が確認後,葬ったものとされる。
執筆者:


方広寺 (ほうこうじ)

静岡県浜松市の旧引佐町にある臨済宗方広寺派本山。1384年(元中1・至徳1)ころ創建。開祖無文元選。秀吉および家康以来の徳川氏も保護したので寺運は盛んであった。1903年一派本山となり,末寺180余寺をもつ。境内にまつられる鎮守の半僧坊権現は火伏せの霊験で知られ,奥山半僧坊として広く信仰される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「方広寺」の意味・わかりやすい解説

方広寺
ほうこうじ

京都市東山区にある天台宗の寺。天正 14 (1586) 年豊臣秀吉によって創建され,木造の大仏を安置した。慶長1 (96) 年の大地震で倒壊,同7年炎上。同 17年徳川家康のすすめにより,秀頼が再興したが,同 19年落成供養の際,鐘銘の「国家安康,君臣豊楽」の文句を徳川家康が曲解し,「家」と「康」の字を分断しているのは徳川氏への呪いの文句であるといい,大坂の陣を引起したことは有名 (→鐘銘事件 ) 。寛文2 (1662) 年地震で再び仏殿が倒れ,秀頼が再造した銅の大仏は鋳つぶして寛永通宝とされた。寛政 10 (1798) 年焼失。天保年間 (1830~44) に仮殿を再建し,半身の木造大仏を安置。 1880年遺跡に豊国神社を建立し,84年鐘楼を建て問題の巨鐘をつるした。

方広寺
ほうこうじ

静岡県西部,浜松市北区にある寺。臨済宗方広寺派の大本山で,山号は深奥山。元中1=至徳1 (1384) 年奥山朝藤が建立。無文元選 (聖鑑国師) の開山。江戸時代には徳川氏および朝廷の祈願所となり大いに栄えた。 1903年独立して一派の大本山となった。鎮守の神として半僧坊大権現をまつる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「方広寺」の解説

方広寺
ほうこうじ

京都市東山区にある天台宗の寺。大仏殿ともよぶ。1586年(天正14)豊臣秀吉が建立。奈良東大寺にならい6丈3尺の大仏を安置する。大仏殿の完成は1612年(慶長17)。大鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」は徳川家康の疑いをうけ,大坂冬の陣の原因になったことで有名。鐘は鐘楼に現存し,重文。大仏殿跡・石塁・石塔は国史跡。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「方広寺」の解説

方広寺
ほうこうじ

京都市東山区にある天台宗の寺
豊臣秀吉が1589年に創建。大仏殿には6丈3尺(約19m)の木像大仏を安置したが,慶長の地震で破壊。徳川家康は豊臣秀頼に再建を命じ1612年完了。'14年の供養に際し,鐘銘の「国家安康」が大坂の役の原因となった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「方広寺」の解説

方広寺

静岡県浜松市北区にある寺院。臨済宗方広寺派大本山。山号は深奥山。1384年創建。釈迦三尊像、七尊菩薩堂は国の重要文化財に指定。境内にある五百羅漢像が有名。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の方広寺の言及

【安土桃山時代美術】より

…前者には,日吉(ひえ)大社西本宮本殿(1586),同東本宮本殿(1595),園城寺金堂(1599)などがあげられる。現存しないが,1589年に建てられた方広寺大仏殿も,鎌倉時代再建の東大寺大仏殿の様式を受け継いでいた。後者には,豊臣秀吉をまつった豊国廟の建築を移したと伝えられる都久夫須麻神社本殿,宝厳寺唐門や大徳寺唐門,大崎八幡神社社殿(1607)などがある。…

【賀茂川∥鴨川】より

…1591年(天正19)豊臣秀吉は御土居の築造に当たり,その東端を鴨川西岸とし,古代・中世以来の洪水の防止をはかった。1610年(慶長15)には,方広寺大仏殿造営の材木運搬のため角倉了以が鴨川の開削(水路化)に着手した。洛東と伏見(淀・鳥羽一帯)の高低差約6尺を土木工事によって水平化することに成功,〈淀・鳥羽之船直に三条橋下に至る〉ようになり(《(駿府記》),物資の輸送が格段に円滑化された。…

【鐘銘事件】より

…1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。…

【豊臣秀吉】より

…また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。…

【真継家】より

…86年(天正14)久直は後陽成天皇即位のさい諸国鋳物師から祝儀銭を徴収,これを慣例化し,伊豆守となった。ついで康綱は江戸幕府から鋳物師支配を承認されるとともに,1609年(慶長14)伊勢神宮の式年遷宮に当たり子息康利(親当)とともに斎部姓に改姓,奉幣使となり,14年には総奉行片桐且元の下で諸国の鋳物師を動員して方広寺の鐘を鋳造する。また17年(元和3),22年に康綱,康利は日光奉幣使とともに関東に下向,真継家は以後,伊勢,日光の例幣使の役を務めることとなる。…

【妙法院】より

…ついで後高倉院皇子尊性法親王が天台座主となってここに住し,新日吉社,金剛念仏三昧院以下多数の寺院の検校職を兼ね,天台三門跡の一つとして勢力を振るった。1586年(天正14)豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建て壮大な千僧会の法要を営んだとき,妙法院がこれを管理しており,本坊は綾小路より当地に移っていた。豊臣氏滅亡後,蓮華王院,新日吉社,後白河法皇御影堂,方広寺大仏殿などすべて妙法院が管理することとなった。…

※「方広寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android