〈京都・山城寺院神社大事典〉
羽柴(豊臣)秀吉は京都に大仏建立を思い立ち、天正一四年(一五八六)四月一日、京都より大坂への帰途、造営の地を「東福寺近傍」に選定したが(「兼見卿記」・遠藤義一氏所蔵文書)、これは現在地より南方の地にあたる。四月二二日には早くも藤堂高虎はじめ諸大名に用材の諸国運上を命じ(高山公実録)、八月には大仏作事のため明の工匠、古道が肥前
井伊氏一族の奥山朝藤(法名是栄)が後醍醐天皇の皇子である無文元選を招いて開山としたのが当寺の始まりである(無文選禅師行業・無文元選禅師行状)。開創年代については、応永二六年(一四一九)一一月一日の京都天龍寺岐陽方秀撰文の遠江州深奥山方広寺法宝輪蔵記(天龍寺文書)の「遠江方広寺至徳初無文選公居之」を根拠にした至徳元年(一三八四)説と、一超碩麟校訂の「奥山無文大師行状」による応安四年(一三七一)説がある。また同六年七月に三光国師孤峯覚明の法嗣無言叟智訥(古剣智訥)が無文元選像(方広寺蔵)に「托開千聖宅 把定仏祖関 看面目也無 背面高居方 広絶塵寰」と賛を加えているが、文中に方広とあることから、この時すでに開創されていたとする説もある。無文元選は元亨三年(一三二三)洛西
当寺には無文の名を慕って多くの僧が集まったといわれ、嘉慶二年(一三八八)二月一五日には
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静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町奥山にある臨済(りんざい)宗方広寺派大本山。深奥山(じんのうざん)と号し、通称は奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)。本尊は釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)。1371年(応安4)(1384年(元中1・至徳1)の説もある)奥山六郎次郎朝藤(ちょうとう)が土地を寄進し、後醍醐(ごだいご)天皇の遺児といわれる無文元選(むもんげんせん)(聖鑑(しょうかん)国師)を第1世にしたと伝える。1903年(明治36)南禅寺派より独立して末寺180余寺をもつ大本山となった。境内は中国天台山方広寺に似せて造営されたといわれるが、たび重なる火災でおもな堂塔は焼失、現在の本堂、開山堂などは明治以降の建造で、七尊菩薩(ぼさつ)堂(国重要文化財)だけが室町時代初期のものである。寺宝には木造釈迦如来および両脇侍(きょうじ)像3躯(く)、絹本着色無文元選像(以上、県文化財)などがある。また境内の半僧坊権現(ごんげん)社は火伏せの霊験で名高い。
[菅沼 晃]
京都市東山区茶屋町にある天台宗の寺。通称大仏殿、京都大仏とよばれ、山号はない。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の発願によって着工、1589年完成。開山は木食応其(もくじきおうご)。漆を塗り金箔(きんぱく)を置いて彩色された木造毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)が大仏殿に安置されたが、1596年(慶長1)の大地震により倒壊した。秀吉の死後、1610年に徳川家康が追善供養のため豊臣秀頼(ひでより)に勧めて金銅大仏を再興させたが、1662年(寛文2)の地震により倒れ、この像は寛永(かんえい)通宝に改鋳されて文銭(ぶんせん)、大仏銭ともよばれた。1664年には徳川氏により木造大仏がつくられたが、これも1798年(寛政10)の雷火により焼失、1843年(天保14)に人々の寄進によってつくられた木造半身大仏も1973年(昭和48)に火災で焼失し、現在は本堂、大黒天堂、大鐘楼を残すのみである。
大鐘楼に据えられた梵鐘(ぼんしょう)(国重要文化財)は、1614年に京都三条釜座(かまんざ)の名古屋三昌によって鋳造されたもので、鐘銘の「国家安康、君臣豊楽」が徳川家に不吉の文であると曲解、讒言(ざんげん)されたことにより大坂冬・夏の陣が起こされ、豊臣家滅亡の因縁となった。境内には前田加賀守(かがのかみ)奉納の泣石(なきいし)、秀吉の朝鮮遠征帰国の供養塔という耳塚(みみづか)などがある。
[中山清田]
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京都市東山区にある天台宗の寺院。大仏殿とも呼ぶ。豊臣秀吉の創建で1595年(文禄4)完工。6丈(約18m)木製金漆塗座像大仏が安置されたが96年(慶長1)地震のため大破し,98年秀吉の死後,秀頼は復興を命じ,1612年銅像大仏が落成。大仏は62年(寛文2)の地震で再び小破したので木像に造り替えられたが,1798年(寛政10)雷火のため大仏,本堂,楼門が焼失した。天保年間(1830-44)に尾張国の有志が半身の像を造り,仮堂に安置したが,1973年火災で焼失,現在は鐘楼と鐘のみを残す。なお1614年梵鐘が鋳造されたが,鐘銘の〈国家安康〉の文字がきっかけとなって,大坂の陣に発展した鐘銘事件は有名。方広寺の門前,正面通南側にある耳塚は,文禄の役で殺した朝鮮人の首級の代りに持ち帰った耳,鼻を秀吉が確認後,葬ったものとされる。
執筆者:細溝 典彦
静岡県浜松市の旧引佐町にある臨済宗方広寺派本山。1384年(元中1・至徳1)ころ創建。開祖無文元選。秀吉および家康以来の徳川氏も保護したので寺運は盛んであった。1903年一派本山となり,末寺180余寺をもつ。境内にまつられる鎮守の半僧坊権現は火伏せの霊験で知られ,奥山半僧坊として広く信仰される。
執筆者:細溝 典彦
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京都市東山区にある天台宗の寺。大仏殿ともよぶ。1586年(天正14)豊臣秀吉が建立。奈良東大寺にならい6丈3尺の大仏を安置する。大仏殿の完成は1612年(慶長17)。大鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」は徳川家康の疑いをうけ,大坂冬の陣の原因になったことで有名。鐘は鐘楼に現存し,重文。大仏殿跡・石塁・石塔は国史跡。
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…前者には,日吉(ひえ)大社西本宮本殿(1586),同東本宮本殿(1595),園城寺金堂(1599)などがあげられる。現存しないが,1589年に建てられた方広寺大仏殿も,鎌倉時代再建の東大寺大仏殿の様式を受け継いでいた。後者には,豊臣秀吉をまつった豊国廟の建築を移したと伝えられる都久夫須麻神社本殿,宝厳寺唐門や大徳寺唐門,大崎八幡神社社殿(1607)などがある。…
…1591年(天正19)豊臣秀吉は御土居の築造に当たり,その東端を鴨川西岸とし,古代・中世以来の洪水の防止をはかった。1610年(慶長15)には,方広寺大仏殿造営の材木運搬のため角倉了以が鴨川の開削(水路化)に着手した。洛東と伏見(淀・鳥羽一帯)の高低差約6尺を土木工事によって水平化することに成功,〈淀・鳥羽之船直に三条橋下に至る〉ようになり(《(駿府記》),物資の輸送が格段に円滑化された。…
…1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。…
…また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。…
…86年(天正14)久直は後陽成天皇即位のさい諸国鋳物師から祝儀銭を徴収,これを慣例化し,伊豆守となった。ついで康綱は江戸幕府から鋳物師支配を承認されるとともに,1609年(慶長14)伊勢神宮の式年遷宮に当たり子息康利(親当)とともに斎部姓に改姓,奉幣使となり,14年には総奉行片桐且元の下で諸国の鋳物師を動員して方広寺の鐘を鋳造する。また17年(元和3),22年に康綱,康利は日光奉幣使とともに関東に下向,真継家は以後,伊勢,日光の例幣使の役を務めることとなる。…
…ついで後高倉院皇子尊性法親王が天台座主となってここに住し,新日吉社,金剛念仏三昧院以下多数の寺院の検校職を兼ね,天台三門跡の一つとして勢力を振るった。1586年(天正14)豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建て壮大な千僧会の法要を営んだとき,妙法院がこれを管理しており,本坊は綾小路より当地に移っていた。豊臣氏滅亡後,蓮華王院,新日吉社,後白河法皇御影堂,方広寺大仏殿などすべて妙法院が管理することとなった。…
※「方広寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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