能勢郡採銅所(読み)のせぐんさいどうしよ

日本歴史地名大系 「能勢郡採銅所」の解説

能勢郡採銅所
のせぐんさいどうしよ

猪名いな川上流の旧摂津国能勢豊島てしま川辺かわべ三郡、すなわち現在の豊能郡・池田市・箕面みのお市および兵庫県川西かわにし市・川辺郡にまたがり、東西・南北ともに十数キロの範囲にわたって銅の鉱脈が存在する。古来、この鉱脈の開掘が続けられ、享保年間(一七一六―三六)の調査によると、間歩(坑道)は能勢郡一二ヵ村に一九五、豊島郡六ヵ村に三八、川辺郡五一ヵ村に一千六九六、計一千九二九ヵ所があったという(大阪府誌)

この地方の産銅に関して、「東大寺縁起」は天平一四年(七四二)に聖武天皇が東大寺大仏を鋳造するために銅を採らせたといい、「多田五代記」は源満仲のとき天禄元年(九七〇)から採銅が始まったと伝えるが、これらの所伝を傍証によって確かめることはできない。産銅の確実な初見は、長暦元年(一〇三七)に摂津国能勢郡から初めて銅を献じ、その上分を七社に奉幣したとみえるものであり(「扶桑略記」同年三月一日条・「百錬抄」同年四月一二日条)、この地方の鉱脈のなかではまず能勢郡から開掘が始まったことがわかる。その後、中世にかけてこの能勢郡の採銅に関する史料が宮内庁書陵部蔵壬生家文書のなかに多く存在し、確実な記録・文書によって中世の産銅史を解明できるほとんど唯一のものとして、鉱山史研究のうえで注目されている。以下、とくに明記しない場合はすべてこの壬生家文書である。

〔鎌倉時代〕

朝廷は長暦元年の開掘後まもなく、能勢郡に採銅所を設けて銅・紺青緑青の三種を貢進させる供御所とし、本格的に銅の採掘を始めた(永仁三年と推定される年月日未詳採銅所奉行益資書状案)。採銅所には預(奉行ともいう)・権預・案主・預目代などの所司がいて管理運営にあたり(応徳元年一二月一九日摂津国採銅所預等連署解案)、当初は国衙から必要な経費を出して土人を雇い採掘したようである。しかし国衙からの経費の支出が困難になって、この方式はあまり長続きせず、のち付近の公領や庄園の農民を寄人・徭人などに編成して労働力を確保し、採掘に従事させるに至った(弘安二年七月二六日官宣旨)。寄人は公領の農民が採銅所に従事することで国衙への雑役を免除してもらったものであり、徭人は庄園の農民がその田畑を採銅所の徭田として認めて年貢などを免除してもらう代りに採銅の仕事に従ったものであった。したがって、この方式が進展すると、採銅所は産銅だけでなく、付近の農民や土地に対しても支配権を及ぼして、採銅所自体が庄園領主化し、鎌倉時代に入ると銅以外に米・銭などの年貢を徴収するようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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