興譲館(読み)コウジョウカン

デジタル大辞泉 「興譲館」の意味・読み・例文・類語

こうじょう‐かん〔コウジヤウクワン〕【興譲館】

江戸時代米沢藩藩校元禄10年(1697)に創設されたが衰微。安永5年(1776)に藩主上杉治憲(鷹山ようざん)が再興・整備し、校名定めた。

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精選版 日本国語大辞典 「興譲館」の意味・読み・例文・類語

こうじょう‐かんコウジャウクヮン【興譲館】

  1. [ 一 ] 山形県米沢市中央(旧元御細工町)にあった米沢藩の藩校。元祿一〇年(一六九七)五代藩主上杉綱憲が儒医矢尾板三印の自邸聖堂を藩営に移して創設。のち衰退したが、安永五年(一七七六)一〇代治憲(鷹山)が再興。明治四年(一八七一閉校
  2. [ 二 ] 肥前小城藩・周防徳山藩にあった藩校の名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「興譲館」の意味・わかりやすい解説

興譲館
こうじょうかん

江戸時代、羽前(うぜん)米沢(よねざわ)藩(上杉家)の藩学。1697年(元禄10)藩主通憲(みちのり)のとき藩校を創立。のち治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))が藩政改革の一環として、1776年(安永5)藩学を整備し、新校舎も建設、校名を定めて再興した。儒学者細井平洲(ほそいへいしゅう)を招き講義をさせ学事興隆をみた。漢学、筆道、習礼を教え、藩士から選抜された塾生20名を中心に士庶聴講を許した。その後、1783年(天明3)館内に友于(ゆうう)堂を建て、通学生のために博習局を開いて教授した。また1806年(文化3)好生堂を建て、本草(ほんぞう)学を教えた。1824年(文政7)からは医学をも開講、蘭方(らんぽう)も講じた。1871年(明治4)閉校。

[木槻哲夫]

『『日本教育史資料 1・5』(1890・文部省)』『杉原謙著「米沢藩と興譲館」(『藩学史談』所収・1943・文松堂書店)』

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百科事典マイペディア 「興譲館」の意味・わかりやすい解説

興譲館【こうじょうかん】

米沢藩の藩校。1776年上杉治憲(鷹山)が細井平洲指導者とし従前からあった学校施設を再編して発足させた。1806年以後朱子学を学風としたが,明治維新廃校。ほかに肥前小城藩,周防(すおう)徳山藩などに同名の藩校があった。
→関連項目平田東助

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「興譲館」の解説

興譲館
こうじょうかん

出羽国米沢藩の藩校。1776年(安永5)城下細工町(現,山形県米沢市)に創設。前身は1697年(元禄10)設置の学問所。職制を定め,細井平洲(へいしゅう)を招く。漢学・習礼を主とする。入学は希望・選抜とし,選抜生には藩費を給した。はじめ古学および徂徠(そらい)学を旨としたが,文政年間から朱子学を主とした。1864年(元治元)類焼し,主水(もんど)町に聖堂などを新築。廃藩置県後,皇学・洋学・医学・筆学・数学の5科とし制度を改めた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「興譲館」の意味・わかりやすい解説

興譲館
こうじょうかん

米沢藩の藩校。元禄 10 (1697) 年上杉綱憲が儒医矢尾板三郎の邸内に一学舎を設けて管理させたのに始る。のち衰微したが,安永5 (1776) 年上杉治憲が再興をはかり,新たに塾舎を建てて興譲館と名づけた。明治維新後さらに制度を整え,洋学などが大いに行われたが,学制頒布に伴い明治5 (1872) 年 10月廃校。なお,肥前国小城藩,周防国徳山藩などにも同名の藩校があった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「興譲館」の解説

興譲館
こうじょうかん

江戸時代,米沢藩の藩校
1697年藩主上杉綱憲 (つなのり) が設立した学校を前身とし,1776年藩主上杉治憲 (はるのり) (鷹山 (ようざん) )が細井平洲を招いて藩校として再興,興譲館と称した。

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