般若寺跡(読み)はんにやじあと

日本歴史地名大系 「般若寺跡」の解説

般若寺跡
はんにやじあと

[現在地名]右京区鳴滝般若寺町

井出口いでぐち(三宝寺川)西岸にあった寺で、五台山般若寺ともいった。延喜年中(九〇一―九二三)に大江玉淵が檀主となり、観賢を開基に建立され、古義真言宗御室おむろ仁和寺に属した(山州名跡志)。「日本紀略」安和元年(九六八)二月二三日条に、太政大臣藤原実頼が村上天皇陵に参詣の途次「被般若寺」とあり、また同書寛仁元年(一〇一七)六月五日条には、円融天皇の皇后藤原遵子が没し、「彼宮御送―葬於般若寺艮地」とあり、この葬送は「御堂関白記」にも記される。藤原道長は寛弘八年(一〇一一)二月に霊所七瀬で祓を行っているが、その一つに「到般若寺滝解除」とみえ、寺近くの滝が祓の地になっている。


般若寺跡
はんにやじあと

[現在地名]吉松町般若寺

日向山九品院般若寺と称した。般若寺村の村名は当寺に由来するという。保安年中(一一二〇―二四)土中より出土した観音像を本尊として安置したことに始まる性空開基の天台宗寺院であったが、のち真言宗に改められたという(三国名勝図会)。保安四年一〇月二八日の草部季貞施入状写(真幸院記)に「般若寺」とみえ、東は大河(川内川)、南は大路、西は高野山、北は大河(白川か)を限る地が草部氏から施入されていた。般若寺観音堂棟札写(同書)には、観応二年(一三五一)四月一九日に観音堂棟上の事始めがあり、同年一一月二八日完成したとある。年月日未詳の日吉山王由緒書上(同書)によると、般若寺の守護神として日吉山王(現日枝神社)が貞和―観応(一三四五―五二)頃観音堂と同時に建立されたという。


般若寺跡
はんにやじあと

[現在地名]鯖江市別所町

別所べつしよの北方にあった寺。跡地は谷間から西方へ少し登った中腹の字椿山つばきやま・般若寺一帯にあり、礎石やお花池の跡が残る。中世方上かたかみ荘の惣社春日神社の別当寺であったと推定されるが、現在春日神社は別所のほか、大野おおの南井なおい吉谷よしたににもあり、いずれが惣社であったかは明らかではない。般若寺関係文書は現在吉谷の春日神社に北隣する安楽あんらく寺に伝来する。

至徳元年(一三八四)二月日の助当の書いた縁起(安楽寺文書)には「越前国方上庄内般若寺」は泰澄が草創した霊地で、得光楞厳りようごん(現福井市)の覚玄阿闍梨覚尊が当山に移住して堂舎仏閣を建立して再興したと記している。


般若寺跡
はんにやじあと

[現在地名]太宰府市朱雀二丁目

大宰府政庁跡の約一・三キロ南方の比高約一五メートルの丘陵上にある。「上宮聖徳法王帝説」の裏書によれば、白雉五年(六五四)に筑紫大宰帥「曾我日向子臣字無耶志臣」が「般若寺」を建立したとある。同寺はこれまで奈良所在とみなされていたが、現在は筑紫所在説が有力である。昭和五四―五五年(一九七九―八〇)に塔心礎のある周辺地域の発掘調査が行われ、塔基壇の一部が出た。構築にあたっては掘込み地業が行われ、基壇化粧は瓦積みであったことが明らかとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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