片野村(読み)かたのむら

日本歴史地名大系 「片野村」の解説

片野村
かたのむら

[現在地名]高山市片野町・森下町もりしたまち神明町しんめいまち城山しろやま

北流するみや川右岸、高山神明しんめい町上流にある。川上は石浦いしうら村と接し、楮谷が両村の境となっている。一帯は坂口さかぐちとよばれ糠塚ぬかづかを越えて江名子えなこ村の屋林やばやしに続く道があった。建保二年(一二一四)一二月日の飛騨国国司庁宣(毛利正彦氏所蔵文書)に「片野」がみえ、飛騨一宮水無みなし神社(現大野郡宮村)領であった。

慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では一宮郷に村名がみえる。石浦村とともに高付され三三三石余、うち田方二四八石余・畑方八五石余、物成高一〇〇石余。同一八年の郷帳では大野灘おおのなだ郷に属し、片野村として一九〇石。なお一宮郷の郷名は水無神社の棟札文詞で同一二年まで確認できる(飛州志)


片野村
かたのむら

[現在地名]小倉北区片野一―三丁目・三萩野みはぎの一―三丁目・香春口かわらぐち一―二丁目・江南町えなみちよう黄金こがね一―二丁目・昭和町しようわまち

萩崎はぎざき村の南、むらさき川右岸に位置する。古くは当地付近まで海辺の野原(潟野)であったという(企救郡誌)。村域は広く、慶長(一五九六―一六一五)以前は小倉城下東曲輪の古船場ふるせんば三本松さんぼんまつ馬借ばしやくも含まれた(「倉府俗話伝」など)秋月街道が通る。中世片野郷で勢力を有していた蔵本道宗は天正年間(一五七三―九二)大友氏に攻められて領地を離れ、小倉で酒造を営んだという(小倉商家由緒記)


片野村
かたのむら

[現在地名]太宰府市みなみ通古賀とおのこが六丁目・朱雀すざく二―四丁目

通古賀村の南東、鷺田さぎた川右岸にある。南は二日市ふつかいち(現筑紫野市)。文和二年(一三五三)八月七日の一色範光寄進状(太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)三)に「筑前国三笠西郷内片野村小河六郎跡地頭職」とあり、一色範光から太宰府天満宮を南朝方追討の神とし、勝利などを願って寄進された。永正一七年(一五二〇)一一月一五日付満盛院快隆の記した手日記(町村書上帳/大宰府・太宰府天満宮史料一四)には「御笠郡内下片野卅町」とあり、下片野三〇町はもと天満宮領であったが、近年は鬼村左馬允の知行地となっており、そのうち一五町は筑前守護代杉興長の祈祷の月次連歌料所として満盛院に預けられていた。


片野村
かたのむら

[現在地名]君津市大戸見おおとみ

柳瀬やなぜ村の南西、小櫃おびつ川右岸にある。同川の南対岸は九兵衛くへえ村。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一四〇石。元禄郷帳では高六〇石余。村高の減少は、文禄の村高帳に記載されていない当村枝郷九兵衛村が元禄郷帳では別に記されているためと考えられる。天保郷帳では高七〇石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は向郷むかいごう村に同じ。


片野村
かたのむら

[現在地名]佐原市片野

下総台地北端部、大須賀おおすか川支流の谷とそれに囲まれた丘陵に位置し、東の大戸おおと村の南の谷を挟んだ丘陵上に集落が形成される。大戸村と西のせき村方面に谷津田が広がる。中世は大戸庄に属したとみられる。応永二〇年(一四一三)九月一七日の大戸大禰宜知行分田数注文(香取文書纂)に「四斗四升四合 片野」とみえる。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高三〇四石余(「部冊帳」伊能家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三〇四石余、伊勢津藩領。


片野村
かたのむら

[現在地名]杵築市片野

古くは八坂やさか川の河口南方の村であったが、江戸時代初期より干拓開発が進み、三川みかわ新田・須崎すざき新田の造成とともに、須崎村・高須たかす村の南方になった。小倉藩元和人畜改帳では二筆に分けて記され、木付きつき廻に属する片野村は高一六九石余、家数一八・人数一〇五(うち百姓一五・名子一四・大工一・鍛冶二)、牛二〇・馬一、御蔵納分の片野村は高八一石余、家数六・人数三六(うち庄屋一・百姓五)、牛九とある。元禄郷帳では高一八一石余。文久二年(一八六二)頃には村内に薪札五七六・豆腐札三・飴札一・揚酒札一・紺屋灰札二・塩農具札四・中高網一・鱧縄札一・浦問屋一があり、在方商業の展開がみられる(「戌年御小物成帳」中野家文書など)


片野村
かたのむら

[現在地名]一志町片野

雲出くもず川中流域右岸にあり、南は天花寺てんげいじ(現嬉野町)の緩やかな丘陵に続き、北は小山おやま川と波瀬はぜ川を隔ててその村に対する。村の南には初瀬はせ表街道が通る。村内の丘陵上にある片野遺跡は縄文時代・古墳時代・中世の複合遺跡で条痕文の縄文土器土師器須恵器・山茶椀などが出土した。近世は、慶長一三年(一六〇八)以降津藩領、寛文九年(一六六九)以降は久居藩領。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には高五〇四石余で、慶安郷帳(明大刑博蔵)には旱損所の記載がある。


片野村
かたのむら

[現在地名]八郷町片野

富士ふじ山の東麓にあり、東は恋瀬こいせ川を隔てて根小屋ねごや村、南は川又かわまた川を境に川又村、北は金指かなさし村。弘安大田文に北郡として「片野三十二丁九段」とある。もとは根小屋村と同村と伝え、恋瀬川の流路の関係で分村したといわれる(新編常陸国誌)。元禄郷帳には向町むかいまち村一千九〇石余とあり、向町の村名も根小屋の対岸にあたるためとされる。天保郷帳には片野村とあり、「古向町村」との添書があるが、改称の時期は不明。天保一四年(一八四三)の戸数は五七(「柿岡村外組合村別戸数調」綿引家文書)


片野村
かたのむら

[現在地名]加賀市片野町

黒崎くろさき村の南にある日本海に面した村で、加佐かさノ岬から続く岩石海岸は村域中央部で尽きて砂浜海岸となる。砂浜に突出した加佐ノ岬層の残丘を長者屋敷ちようじややしきと俗称し、昔は塩竈があって石鏃が出土したと伝える憩紀聞。現在でもかなり大きな切石があって須恵器片などが出土する。正保郷帳によると高五四石余、田方二町五反余・畑方九反余、物成高一九石余。「江沼志稿」では高四〇七石余、小物成は船役一五三匁と山役・茶役、家数四〇・人数一六七、馬九、猟船六。半農半漁の村で、北前船の船頭・水主も多く輩出。


片野村
かたのむら

[現在地名]日吉町字田原たわら

田原川と胡麻ごま川の合流地点から北に広がる村。北は和田わだ村・あたらし村、東は上木住かみこずみ村・下木住村、南は殿田とのだ村、西は家田いえだ(保野田村)。南北に通る若狭街道と、それに並ぶ田原川に沿って集落がある。園部藩領。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は五八石余であったが、天保郷帳では一六六石余に増加。


片野村
かたのむら

[現在地名]勢和村片野

南は朝柄あさがら村、西は波多瀬はたせ村に接し、北および東は櫛田くしだ川に面する。文禄検地帳写(徳川林政史蔵)によると地積は五二町二畝余、分米は四九一石余である。内訳は田が一八町一反七畝余、畑が三一町三反三畝余、ほかに屋敷地が二町四反七畝余とある。近世は和歌山藩田丸領。正徳五年(一七一五)の片野村新畑未改検地帳(同蔵)が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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