平安前期の漢詩人。桓武(かんむ)天皇の皇子、802年(延暦21)良岑朝臣(あそん)を賜り臣籍に下った。伎芸(ぎげい)に堪能で音楽をよく解した。雅楽頭(うたのかみ)、丹後(たんご)、但馬介(たじまのすけ)、蔵人頭(くろうどのとう)などを経て、814年(弘仁5)従(じゅ)四位下に至る。819年藤原冬嗣(ふゆつぐ)・緒嗣(おつぐ)らとともに『日本後紀(こうき)』を撰進(せんしん)した。821年、従三位中納言(ちゅうなごん)、この年冬嗣らとともに『内裏式(だいりしき)』を撰(えら)んだ。827年(天長4)には滋野貞主(しげののさだぬし)らと漢詩文集『経国(けいこく)集』を編纂(へんさん)、翌年大納言(だいなごん)に任じた。同7年に薨(こう)じ、正二位を贈られた。作品は『凌雲集(りょううんしゅう)』以下の勅撰漢詩集に13首とられている。その詩には中国六朝(りくちょう)詩とともに初唐詩の影響がみられ、五言詩が多く絶句体に特徴がうかがえる。
[金原 理]
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785~830.7.6
良峰とも。平安初期の公卿。桓武天皇皇子。母は女嬬(にょじゅ)百済永継。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の同母弟。宗貞(僧正遍照)・晨直(ときなお)らの父。若くして狩猟を好み,多くの伎芸をよくした。802年(延暦21)良岑朝臣を賜姓されて臣籍降下し,右京に貫付。809年(大同4)従五位下。才により武官を兼ね,書や音楽もよくしたという。右近衛少将・雅楽頭・左少弁などを歴任し,811年(弘仁2)蔵人頭。その後左衛門督・右大弁を兼ね,815年に左京に貫付。翌年参議。821年従三位・中納言。のち按察使(あぜち)・春宮大夫・右近衛大将などを兼任。828年(天長5)大納言。「日本後紀」「内裏式」の編纂に従事。「経国集」に多くの漢詩を残す。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…書名は,〈文章は経国の大業,不朽の盛事〉という魏の文帝の〈典論・論文〉による。淳和天皇の勅を奉じ,良岑安世(よしみねのやすよ)が滋野(しげの)貞主,南淵弘貞,菅原清公ら数名とともに協議して編集したもの。体裁分類など《文選》を学ぶ。…
…《青海波》の袍は青海波の地紋に千鳥模様を刺繡した麴塵袍(きくじんのほう)といい,舞楽装束のうちでもっとも華麗なものである。輪台,青海はともに中国の西域地方の地名とされ,《輪台》は唐時代に中国で作られ日本に伝えられたとする説や,承和年間(834‐848)に勅命によって,大納言良岑安世(よしみねのやすよ)が舞を作り,小野篁(おののたかむら)が詠(えい)(現在,詞のみ残っているが,発声法が伝わっていない)を作ったという説もある。一方,《青海波》は,音楽を太田麿あるいは大戸清上(おおとのきよがみ),舞を良岑安世が作ったとされる。…
※「良岑安世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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