花井卓蔵(読み)ハナイタクゾウ

デジタル大辞泉 「花井卓蔵」の意味・読み・例文・類語

はない‐たくぞう〔はなゐタクザウ〕【花井卓蔵】

[1868~1931]弁護士政治家広島の生まれ。星亨ほしとおる暗殺事件日比谷焼き打ち事件大逆事件弁護担当衆議院議員、のち貴族院議員。普通選挙実現に尽くした。

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精選版 日本国語大辞典 「花井卓蔵」の意味・読み・例文・類語

はない‐たくぞう【花井卓蔵】

  1. 弁護士、政治家。広島県出身。東京弁護士会会長、衆議院議員として、普通選挙法の実現に尽力、また星亨暗殺、日比谷焼打事件、大逆事件などの弁護に活躍した。明治元~昭和六年(一八六八‐一九三一

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20世紀日本人名事典 「花井卓蔵」の解説

花井 卓蔵
ハナイ タクゾウ

明治〜昭和期の弁護士,政治家 衆院議員(正交倶楽部);貴院議員(勅選)。



生年
慶応4年6月12日(1868年)

没年
昭和6(1931)年12月3日

出生地
安芸国御調郡三原町(広島県)

旧姓(旧名)
立原 熊次郎

学歴〔年〕
英吉利法律学校(現・中央大学)〔明治21年〕卒

学位〔年〕
法学博士〔明治42年〕

主な受賞名〔年〕
勲一等旭日大綬章

経歴
東京法学院大学部に学び、明治23年弁護士試験合格、直ちに弁護士開業。刑事弁護を専門に足尾鉱毒事件、日比谷焼打事件、大逆事件、大本教事件などの弁護を担当。日本弁護士協会創立委員、東京弁護士会会長、中央大講師を務めた。一方、明治31年以来広島県から衆院議員当選7回、議員同志倶楽部などを興し、普選法実現に努力。傍ら、刑事司法改革(刑法改正案・借地法案・陪審法案など作成)にも尽力。大正4年衆院副議長、11年勅選貴院議員となり、法制審議会委員も務めた。死刑廃止論者としても知られる。著書に「訟庭論草」(全8巻)「刑法俗論」「人生と犯罪」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「花井卓蔵」の意味・わかりやすい解説

花井卓蔵
はないたくぞう
(1868―1931)

法学者。弁護士、政治家でもあった。慶応(けいおう)4年広島藩士立原四郎右衛門の四男として三原に生まれ、花井家の養子となる。1888年(明治21)英吉利(イギリス)法律学校(現中央大学)を卒業後、1890年に代言人(弁護士)試験に合格し、星亨(ほしとおる)暗殺事件、足尾銅山争議、大逆事件などで刑事弁護士として活躍した。東京弁護士会会長を務め、1898年には衆議院議員に当選し、同院の副議長にもなり、その後、貴族院議員に勅選された。この間、普通選挙の実現をはじめ、刑法・刑事訴訟法の改正、陪審法制定などにおいて活躍した。著書として、シーメンス事件など重要事件の弁論を集めた『訟廷論草』(1930~1931)のほか、『刑法俗論』(1912)、『自救権論』(1917)などがある。昭和6年自宅でガス中毒により死亡した。

[名和鐵郎]

『大木源二編著『花井卓蔵全伝』上下(1997・大空社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「花井卓蔵」の意味・わかりやすい解説

花井卓蔵 (はないたくぞう)
生没年:1868-1931(明治1-昭和6)

弁護士,政治家。広島藩士立原四郎右衛門の四男として生まれ,のち花井家を継ぐ。英吉利法律学校,東京法学院(現,中央大学)を卒業後,代言人試験に合格し開業,とくに星亨暗殺事件(1901),日糖事件(1909),大逆事件(1910),シーメンス事件(1914)など刑事裁判の弁護で名声を博した。1898年以来,代議士に当選7回,憲政本党,猶興会,又新(ゆうしん)会などに所属,院内進歩派として活躍,とくに明治末年には普選運動に尽力した。1915年衆議院副議長に推され,23年には貴族院議員に勅選された。この間,法学博士となり,東京弁護士会の議長,会長を歴任し,1922年脱会し,23年原嘉道らと第一東京弁護士会を結成した。また臨時法制審議会委員,陪審法取調委員として刑法,刑事訴訟法などの起草に当たった。著書は《刑法俗論》《訟廷論草》ほか多数。
執筆者:

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「花井卓蔵」の解説

花井 卓蔵
ハナイ タクゾウ


肩書
衆院議員(正交倶楽部),貴院議員(勅選)

旧名・旧姓
旧姓=立原

生年月日
慶応4年6月12日(1868年)

出生地
安芸国広島御調郡三原町(広島県)

学歴
英吉利法律学校(現・中央大学)〔明治18年〕卒

学位
法学博士〔明治42年〕

経歴
東京法学院大学部に学び、弁護士試験合格、直ちに弁護士開業。刑事弁護を専門に日比谷焼打事件、大逆事件などの弁護を担当。東京弁護士会会長、中央大講師を務めた。一方、明治31年以来広島県から衆院議員当選7回、議員同志倶楽部などを興し、普選法実現に努力。傍ら、刑事司法改革(刑法改正案・借地法案・陪審法案など作成)にも尽力。大正4年衆院副議長、11年勅選貴院議員となり、法制審議会委員も務めた。著書に「訴庭論草」(全8巻)など。

没年月日
昭和6年12月3日

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「花井卓蔵」の意味・わかりやすい解説

花井卓蔵
はないたくぞう

[生]慶応4 (1868).6.12. 広島,三原
[没]1931.12.3. 東京
明治・大正・昭和期の弁護士,法学者,政治家。広島藩士立原四郎右衛門の四男として生まれ,のち花井家を継いだ。1888年に英吉利法律学校(→中央大学)を卒業後,1890年代言人試験に合格,終生弁護士として活躍した。刑事弁護の権威であり,大逆事件日比谷焼打ち事件シーメンス事件などを取り扱った。政治家としては 1898年から 7回衆議院議員に当選,1922年には貴族院議員に勅選。法学者としては 1906年に法律取調委員,1919年には臨時法制審議会委員となり,刑法刑事訴訟法の改正,陪審法(→陪審)の制定などに貢献し,中央大学教授も務めた。主著に『自救権論』(1917),『訟庭論草』(1929)がある。

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朝日日本歴史人物事典 「花井卓蔵」の解説

花井卓蔵

没年:昭和6.12.3(1931)
生年:明治1.6.12(1868.7.31)
弁護士。広島県出身。英吉利法律学校(中央大の前身)卒後弁護士となる。明治31(1898)年広島から選出されて衆議院議員。39年法律取調委員となり,刑法改正事業に参加したが,裁判官の裁量権が広すぎるとして改正刑法典(1907年公布)に反対した。以後も監獄法,刑事訴訟法,陸海軍軍法会議法など多くの立法に関与,陪審法の成立に貢献した。死刑廃止論者としても知られる。大正11(1922)年貴族院勅選議員となる。その本領は刑事弁護にあり,足尾鉱毒事件,星亨暗殺事件,日比谷焼討事件,森戸事件,大本教事件など数多くの有名事件を弁護した。自宅でガス中毒死。<著作>『訟庭論草』全7巻

(長尾龍一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「花井卓蔵」の意味・わかりやすい解説

花井卓蔵【はないたくぞう】

弁護士,政治家。広島県出身。英吉利法律学校卒。1898年以来衆議院当選7回,1915年衆議院副議長,1922年貴族院議員。この間足尾鉱毒事件日比谷焼打事件大逆事件などを弁護。法律取調委員,法制審議会副総裁等を歴任。刑法・刑訴法改正,普選法実現,陪審法制定等に努め,死刑廃止を主張。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「花井卓蔵」の解説

花井卓蔵 はない-たくぞう

1868-1931 明治-昭和時代前期の弁護士,政治家。
慶応4年6月12日生まれ。刑事事件や人権事件の弁護士として大逆事件などを手がけた。明治31年衆議院議員(当選7回)。衆議院副議長をつとめる。のち貴族院議員。刑法改正,陪審法制定などにつくした。東京弁護士会会長。昭和6年12月3日死去。64歳。備後(びんご)(広島県)出身。英吉利(イギリス)法律学校(現中央大)卒。旧姓は立原。著作に「訟庭論草」など。

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367日誕生日大事典 「花井卓蔵」の解説

花井 卓蔵 (はない たくぞう)

生年月日:1868年6月12日
明治時代-昭和時代の弁護士;政治家。衆議院議員;東京弁護士会会長;法学博士
1931年没

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