花山院師賢(読み)カザンインモロカタ

デジタル大辞泉 「花山院師賢」の意味・読み・例文・類語

かざんいん‐もろかた〔クワザンヰン‐〕【花山院師賢】

[1301~1332]鎌倉末期の公卿。正二位大納言歌人後醍醐ごだいご天皇が北条氏討伐の兵を挙げたとき、天皇身代わりとなって比叡山ひえいざんに行き、天皇の笠置かさぎ遷幸を成功させた。

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精選版 日本国語大辞典 「花山院師賢」の意味・読み・例文・類語

かざんいん‐もろかた【花山院師賢】

  1. 鎌倉後期の公卿。大納言。元弘元年一三三一後醍醐天皇の北条氏討伐計画に参画。天皇を笠置山に落とすために身代わりとして比叡山へ登る。のち捕えられ、下総配流(はいる)され病死。法名素貞。正安三~元弘二年(一三〇一‐三二

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改訂新版 世界大百科事典 「花山院師賢」の意味・わかりやすい解説

花山院師賢 (かざんいんもろかた)
生没年:1301-32(正安3-元弘2)

鎌倉後期の公卿。父は花山院師信。1316年(正和5)従三位,17年(文保1)参議,のち権中納言を経て大納言。後醍醐天皇の倒幕計画に参加。正中の変は一応無事に切り抜けたが,元弘の乱では天皇になりすまして叡山登り,幕府方の目を引きつけて天皇を南都へ赴かせ,あわせて衆徒の協力を要請するなどの活躍をした。笠置陥落後捕らえられて32年下総へ流罪となり,配所で病没した。
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朝日日本歴史人物事典 「花山院師賢」の解説

花山院師賢

没年:正慶1/元弘2.10(1332)
生年:正安3(1301)
鎌倉後期の公卿。文保1(1317)年参議,権中納言を経て,正二位大納言となる。正中1(1324)年,後醍醐天皇の第1次討幕運動(正中の変)に加わったが失敗し,屏居。元弘1(1331)年の第2次討幕運動(元弘の変)の際,後醍醐天皇が南都に逃れるや,鎌倉方の目をくらますため,天皇と詐称して比叡山延暦寺に登り僧兵を集めて挙兵した。しかし,師賢が天皇の替え玉であることを知った僧兵たちは,一瞬にして離散した。師賢は比叡山を下り,笠置に赴いたものの,やがて笠置の砦が陥ち,鎌倉方に捕縛された。正慶1/元弘2(1332)夏,下総の千葉貞胤のもとに預けられ,同年10月に病没した。歌人でもあり『新葉和歌集』に49首が収められている。

(佐藤和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「花山院師賢」の解説

花山院師賢 かざんいん-もろかた

1301-1332 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
正安(しょうあん)3年生まれ。花山院師信の子。参議,権(ごんの)中納言をへて大納言となる。元徳3=元弘(げんこう)元年(1331)元弘の乱では,後醍醐(ごだいご)天皇の身代わりとなって比叡(ひえい)山にのぼったが発覚し,笠置(かさぎ)で幕府方に捕らえられ出家。正慶(しょうきょう)元=元弘2年下総(しもうさ)の千葉貞胤にあずけられ,同年10月病死した。32歳。太政大臣を追贈された。

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世界大百科事典(旧版)内の花山院師賢の言及

【元弘の乱】より

…このたびの幕府の処分は正中の変のときに比べて大規模かつ厳しいものであった。天皇と皇子たちの配流はもとより,幕府は与同者たる僧俗を執拗に追及し,32年4月に二条道平,花山院師賢,万里小路藤房,文観,円観ら20余名を斬首や遠流などに処した。天皇が隠岐へ流されたのは32年3月であったが,幕府との戦いは護良親王や楠木正成らによって根強く続けられた。…

※「花山院師賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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