花島村(読み)はなしまむら

日本歴史地名大系 「花島村」の解説

花島村
はなしまむら

[現在地名]角田市花島

阿武隈川左岸の低丘陵上にあり、南を高倉たかくら川が東へ流れ、南東端で向きを北へかえて流れる。北はおか村、南は横倉よこくら村。野地・水田地帯で北西丘陵部、および東方川沿いに集落がある。南から北西へ大河原おおがわら道、東から西へ白石しろいし城下への道が通る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「はなしまかう」とみえ、段銭五貫二五〇文。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、花島のうち「くさかひこさえもん知行、大かくやしき、下かもんふん、一ふせんやしき」が田手助三郎に、「せいの十郎えもんふん、一なかの内在家」が大河原助九郎に、「たけの在家一間、下かもんの居屋しき一けん」が大和田与六郎に下されている。田手助三郎は当時の角田城主田手宗光で、伊具西根総成敗にも任じられていた。

慶長三年(一五九八)以降石川氏の知行地。寛永二一年(一六四四)の同氏知行目録(石川俊直家文書)では四〇貫八九七文。


花島村
はなしまむら

[現在地名]花見川区花島町・花見川

天戸あまど村の東にあり、東部から南部にかけて花見川が流れる。古代の開創を伝える天福てんぷく寺があり、中世の記録類に花島の名とともにその存在が知られ、江戸時代初期の棟札には当地が千葉庄内であったことが記される。天正一九年(一五九一)から旗本遠山領になったとされるが、寛永二年(一六二五)知行宛行状で同領一二五石余が確認される。


花島村
はなしまむら

[現在地名]武雄市武雄町永島ながしま字花島

現武雄町の中央東部に位置する。村内に二つの小丘陵があるほかは田園地帯である。

寛喜三年(一二三一)の僧長順田地寄進状(武雄神社文書)に「在花島村田吉名田内坪、四至、東限太田大路、西限元歩射田畝、南限野波田、北限大河」とある。

この村には朝灘里あさなぎかり・花島里・三隈みくま里・庄島しようじま里などがあり、条里制の遺構が残っている。また二つの低丘陵には古墳・箱式石棺墓がある。平安時代の後期に長島ながしま庄となり蓮華王れんげおう院領。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の領有となった。室町時代は塚崎つかざき庄に属して塚崎後藤氏の所領となり、江戸時代には佐賀藩武雄領。


花島村
はなじまむら

[現在地名]春野町花島

牧野まきの村の南、北流して熊切くまきり川の上流部に注いでいる花島川の河谷に点在する三集落、栗子くりご柿ノ脇かきのわき本村ほんむらからなる。正保郷帳に花島村とみえ永四貫六〇一文、うち花玄(花厳)庵領五〇文・大尺領八四文。江戸初期から幕府領。享保郷村高帳では掛川藩預所。その後幕府代官支配に復した(「春野町史」など)。幕府代官支配時代、現地では長蔵寺ちようぞうじ村の土豪花島(鳥居)氏が在地手代(大庄屋)として直接支配に当たり、正徳三年(一七一三)まで当村を含む熊切郷(熊切組)の村々の年貢納入を一括担当した(春野町史)


花島村
はなじまむら

[現在地名]幸手市花島

槙野地まきのじ村の北、江戸川右岸の洪積地に位置する。東は江戸川を隔てて西高野にしこうや(現千葉県関宿町)。もとは下総台地の北端であったが、寛永一八年(一六四一)新利根川の開削で江戸川の右岸に位置するようになった(明暦二年「小流寺縁起」小流寺蔵)。村の西方を庄内しようない堀が流れ、関宿せきやど(現関宿町)へ通ずる道が南北に貫通する。下総国葛飾郡庄内領に属した(郡村誌)。時期は不明だが、槙野地村から分村したと伝え(同書)元禄郷帳では高八一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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