若松 若太夫(2代目)
ワカマツ ワカタユウ
- 職業
- 説経節太夫(若松派)
- 専門
- 説経浄瑠璃
- 肩書
- 若松派家元(2代目)
- 資格
- 東京都無形文化財保持者(説経節)〔昭和57年〕,板橋区無形文化財保持者
- 本名
- 松崎 寛
- 別名
- 前名=若松 小松太夫,後名=若松 武蔵大掾(2代目)(ワカマツ ムサシノダイジョウ)
- 生年月日
- 大正8年 6月24日
- 出生地
- 東京・小石川
- 出身地
- 埼玉県
- 経歴
- 初代若松若太夫の六男。昭和2年市村座で初舞台、小松太夫を名乗る。その後、8歳の時から、先代の父について全国各地を巡業。昭和21年2代目若太夫を襲名したが、戦後の混乱期で浄瑠璃は受けず、酒に走って、アルコール中毒で失明、難聴となる。55年周囲の協力などで30年ぶりに復活。平成7年2代目武蔵大塚を襲名。十八番は「小栗判官」。レコードに「若松若太夫・説経節の世界」などがある。
- 受賞
- 芸術祭賞〔昭和63年〕,伝統文化ポーラ特賞(第10回)〔平成2年〕
- 没年月日
- 平成11年 10月26日 (1999年)
- 家族
- 父=若松 若太夫(初代)
若松 若太夫(初代)
ワカマツ ワカタユウ
- 職業
- 説経節太夫(若松派)
- 専門
- 説経浄瑠璃
- 本名
- 松崎 大助
- 別名
- 前名=若松 芳太夫,若松 崎太夫,後名=若松 武蔵大掾(ワカマツ ムサシノダイジョウ)
- 生年月日
- 明治7年 10月
- 出生地
- 埼玉県 大里郡石原村(熊谷市)
- 経歴
- 説経祭文の名手を父に持ち、11歳の時上京して説経浄瑠璃の2代目薩摩辰太夫に入門。若松芳太夫、崎太夫を経て、明治35年若太夫と改名して一派を興す。41年第5回美音会演奏会でその名を披露し好評を得る。天性の美声の持ち主で、義太夫、新内などを取り入れて説経節の芸術的向上と流布につとめた。昭和21年武蔵大掾と改名。得意とした曲に「勧進帳」「蓮生坊物語」「山荘太夫」「小栗判官」などがある。
- 没年月日
- 昭和23年 11月24日 (1948年)
- 家族
- 六男=若松 若太夫(2代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
若松若太夫 (わかまつわかだゆう)
説経節の太夫。初世と2世がある。(1)初世(1874-1948・明治7-昭和23) 本名松崎大助。埼玉県熊谷市出身。家は農商兼業であったが,祖父が観世流能の師匠,父は祭文の名人という環境から11歳で説経節を志して上京,〈説経祭文〉の薩摩辰太夫に入門した。天性と修業が相まって習熟し,16世家元を称したが,1902年義太夫節,新内節,講釈などの詞章曲節を加味して〈改良説経節〉を称して若松派を創立,名も若松若太夫と改めて初世家元となった。08年の演奏会では人形を操らせ,その美音,声量,豪快にして繊麗,卑俗を脱した気品ある語り口で人気を得,彼の名が公になった。その後,嘉納治五郎らの後押しで政財界人と親交を結ぶほどの名声を博した。(2)2世(1919-99・大正8-平成11)本名松崎寛。初世の13番目の子として東京小石川に生まれた。8歳のとき浅草市村座で初舞台。父譲りの天性をうたわれて,父と興行をともにして育った。1948年暮れの父の死後,時流に合わなくなった説経節を棄て鋳物工となったが,過労などが原因で先天性の弱視が進行し,酒害も手伝って失明,強度の難聴をきたして失意の生活を送った。しかし身障者ヘルパーの助けで80年に再起し,再び豊かな情感と声量,美声で聴衆を魅了し多くの舞台を務めている。82年東京都無形文化財に指定された。
執筆者:西角井 正大
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
若松 若太夫(2代目)
ワカマツ ワカタユウ
昭和・平成期の説経節太夫(若松派) 若松派家元(2代目)。
- 生年
- 大正8(1919)年6月24日
- 没年
- 平成11(1999)年10月26日
- 出生地
- 東京・小石川
- 出身地
- 埼玉県
- 本名
- 松崎 寛
- 別名
- 前名=若松 小松太夫,後名=若松 武蔵大掾(2代目)(ワカマツ ムサシノダイジョウ)
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術祭賞〔昭和63年〕,伝統文化ポーラ特賞(第10回)〔平成2年〕
- 経歴
- 初代若松若太夫の六男。昭和2年市村座で初舞台、小松太夫を名のる。その後、8歳の時から、先代の父について全国各地を巡業。昭和21年2代目若太夫を襲名したが、戦後の混乱期で浄瑠璃は受けず、酒に走って、アルコール中毒で失明、難聴となる。55年周囲の協力などで30年ぶりに復活。平成7年2代目武蔵大塚を襲名。十八番は「小栗判官」。レコードに「若松若太夫・説経節の世界」などがある。
若松 若太夫(1代目)
ワカマツ ワカタユウ
明治〜昭和期の説経節太夫(若松派)
- 生年
- 明治7年10月(1874年)
- 没年
- 昭和23(1948)年11月24日
- 出生地
- 埼玉県大里郡石原村(現・熊谷市)
- 本名
- 松崎 大助
- 別名
- 前名=若松 芳太夫,若松 崎太夫,後名=若松 武蔵大掾(ワカマツ ムサシノダイジョウ)
- 経歴
- 説経祭文の名手を父に持ち、11歳の時上京して説経浄瑠璃の2代目薩摩辰太夫に入門。若松芳太夫、崎太夫を経て、明治35年若太夫と改名して一派を興す。41年第5回美音会演奏会でその名を披露し好評を得る。天性の美声の持ち主で、義太夫、新内などを取り入れて説経節の芸術的向上と流布につとめた。昭和21年武蔵大掾と改名。得意とした曲に「勧進帳」「蓮生坊物語」「山荘太夫」「小栗判官」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
若松若太夫(初代)
没年:昭和23.11.24(1948)
生年:明治7(1874)
明治から昭和にかけての説経節若松派の太夫。本名松崎大助。埼玉県熊谷の農家に生まれる。14歳で説経節をはじめ,芳太夫,崎太夫を経て明治35(1902)年に若松若太夫と改めて一派を樹立。当時説経節は関東中央部で農民が伝承していて専業者はなく,郷土芸能視されていたが,若太夫の美声と艶やかな語り口で郷土芸能の域を脱し,「改良説経節」として知られるようになった。昭和20(1945)年に2代目を子の寛に譲り武蔵大掾を名乗った。2代目若太夫は失明と難聴のため襲名後間もなく活動を中断していたが,昭和54年に再起,説経節の復活として話題を呼んだ。<参考文献>『若松若太夫芸談』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
若松若太夫
わかまつわかたゆう
[生]1874. 熊谷
[没]1948
説経節の太夫。本名は松崎大助。薩摩 (若松) 辰太夫の門弟。芳太夫,崎太夫を経て,1902年若松若太夫と名のった。 08年美音会に出演し,『小敦盛一代記』捨て子の段を語り,説経節の芸術的地位を高めた。美声家として有名で,埼玉,多摩,八王子などに細々と残っていた説経節を,近代的で上品なものに改訂し芸能界に進出させた功績は大きい。 46年武蔵大掾と名のり,実子寛に若太夫の名を譲った。代表曲は『苅萱』『熊谷蓮生坊』『勧進帳』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
若松若太夫(初代) わかまつ-わかたゆう
1874-1948 明治-昭和時代の説経浄瑠璃(せっきょうじょうるり)太夫。
明治7年10月生まれ。薩摩(さつま)辰太夫の門人。明治35年若松若太夫を名のり一派をおこす。41年の第5回美音会で好評をえた。義太夫節,新内節などをとりいれた新曲も創作。昭和21年子の松崎寛に2代目をゆずり,武蔵大掾(むさしのだいじょう)と改名。昭和23年11月24日死去。75歳。埼玉県出身。本名は松崎大助。前名は芳太夫,崎太夫。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例