茂別館跡(読み)もべつだてあと

日本歴史地名大系 「茂別館跡」の解説

茂別館跡
もべつだてあと

[現在地名]上磯郡上磯町字矢不来

函館湾の西端、渡島山地の分水界梅漬うめづけ峠から南流する茂辺地もへじ川左岸、標高一〇―四〇メートルの丘に位置する中世の館跡。いわゆる道南十二館の一で、国指定史跡。南方の同川河口まで約五〇〇メートル。河口南岸は砂洲が発達して入江をなし、とまりの地名が伝えられている。砂洲の付根、西丘に安東氏の祈願所慈眼じげん寺の跡があるという(茂別館跡についての考察「地域史研究はこだて」三二)。函館湾の東入口を押え、さらに青森県東通ひがしどおり村の尻屋しりや崎、同県大間おおま町の大間崎、南西の同県三厩みんまや村の竜飛たつぴ崎に至る津軽海峡を視野に置いている。

新羅之記録」などによると、鎌倉時代夷島の幕府(北条氏)代官であった安東氏の末裔盛季は、嘉吉二年(一四四二)南部氏の攻撃により十三とさ(現青森県市浦村)を失い、翌年小泊こどまり(現同県小泊村)から夷島へ逃れたという。盛季の男子康季は文安三年(一四四六)夷島から津軽へ渡ったが病没、その子義季もまた享徳二年(一四五三)鼻和はなわ大浦おおうら(現青森県岩木町)で南部氏との戦いに敗死、下之国安東氏惣領家は断絶した。盛季一族が津軽を失った時、盛季弟安東道貞の男子、潮潟安東四郎重季の嫡男某(師季か)は、幼かったので八戸南部氏にとらわれ、成人後に政季と改名して田名部たなぶ(現青森県むつ市)を領していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「茂別館跡」の解説

もべつだてあと【茂別館跡】


北海道北斗市矢不来(やふらい)にある安東氏の館跡。道南十二館の一つ。1443年(嘉吉3)、津軽十三湊(とさみなと)城主安東盛季が南部氏に敗れて北海道に渡ってきたときに築造され、安東政季が1454年(享徳3)から1456年(康正2)まで居住し、その後は政季の弟と推定されている下国安東家政が箱館の河野政通の援助によって守護した館と伝えられている。1457年(長禄1)にアイヌの蜂起軍のリーダー・コシャマインが攻めてきて、志苔館(しのりたて)、箱館など道南の主だった館が次々と陥落したが、上之国花沢館とこの茂別館だけが残ったという記録がある。その後、下国(安東)氏は福山松前)藩に属し、茂別付近を領有して重鎮となった。茂別館は、茂辺地(もへじ)川左岸にある丘の南端にあり、南の大館と北の小館で構成されている。西は茂辺地川岸の崖地、南北は自然の沢で仕切られ、大館と小館の東はそれぞれ堀と自然の沢となっていた。また、大館、小館とも北、東、南の三方に土塁をめぐらしていた。現在も土塁と空堀が残っている。1982年(昭和57)、道南十二館の志苔館跡大館跡、上之国勝山館跡および上之国花沢館跡を追って、国の史跡として指定された。JR江差線茂辺地駅から徒歩約13分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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