ドイツの劇作家、詩人。11月10日、西南ドイツの小さな田舎(いなか)町マールバハに生まれる。キリスト教信仰に篤(あつ)い両親のもとに育ち、幼少のころから聖職者となることを夢み、実際にそのコースを順調に進んでいたが、13歳のとき領主カール・オイゲン公の恣意(しい)的干渉によって進路の変更を余儀なくされ、命令に従って1773年1月、新設されたばかりの軍学校(通称カール学院)へ入学。軍隊式の規律と監督の厳しいこの学校で、初め2年間法学を学んだのち医学に転じ、80年12月、「人間の動物的本性と精神的本性との連関について」と題する卒業論文をもって卒業。ただちに連隊付き医官に任命された。
すでに学院に在学中、ひそかに持ち込まれた当時の新文学運動の諸作品、とくにゲーテの『ウェルテル』(1774)や、哲学教授アーベルから教えられたシェークスピアの戯曲、とくに『オセロ』(1604)に刺激されて戯曲の習作を始めていたシラーは、そのころには、激しい自我主張と深い宗教感情とが交錯する処女作『群盗』をほぼ完成していた。そこで社会に出るやいなやその出版を思い立ち、81年初夏、匿名で自費出版し、これが翌年1月、マンハイム国民劇場で初演されて大評判となった。しかし『群盗』はシラーにとって「家族と祖国に値した」。中傷する者があってシラーは領主の不興を買い、82年9月、マンハイム国民劇場支配人ダールベルクを頼って亡命する。しかしダールベルクは外交上の配慮から冷たく、ためにその後1年間、苦境にあえぐことになる。さいわい逃亡をともにしたシュトライヒャーの献身的な友情に助けられ、また親友ウォルツォーゲンの母親のバウアバハの別荘にかくまわれて、政治的野心家と共和制の悲劇『ゲヌアのフィエスコの謀反』(1783)と、宮廷的専横のいけにえとなる清純な恋を描いた市民悲劇『たくらみと恋』(1784)を書き上げる。ようやく83年9月、1年の契約でマンハイム国民劇場付き詩人の職を得たが、翌年契約は更改されず、ふたたび窮地に陥る。このときドレスデンのケルナーから友愛の手を差し伸べられ、彼のもとに2年間滞在し、雑誌『タリーア』を編集。のちにベートーベンの『第九』の合唱テキストとして世界的に有名になった『歓喜に寄す』(1785)はこのころの作。またこの間に理想と友情の悲劇『ドン・カルロス』(1787)を完成。この作品は、それまでの散文による荒削りで破壊的な激越調の作風を捨て、韻文によって書かれ、シラーがシュトゥルム・ウント・ドラングから決別して古典主義的文学の様式へ進もうとしていることを端的に示すものであった。はたして彼はこの作品が完成すると同時にケルナーのもとを辞して、87年夏、ゲーテ、ヘルダー、ウィーラントらのいるワイマールへ移住する。
ワイマールに到着すると、シラーは旺盛(おうせい)な意欲をもって『オランダ離反史』(1788)、小説『見霊者』(1787~89)を書き進めるかたわら、ギリシア悲劇、カント哲学を熱心に研究する。1789年イエナ大学歴史学担当教授(無定給)に就任(しかしこの職はやがてシラーが病気となったため長くは続かなかった)。91年、古典主義のプロローグと文学史上評せられるビュルガー批評を発表。詩人にとって不可欠の要件は、個性の純化と理想化技法による普遍的人間性の造形であると論じた。この年、一時は死の誤報も流れるほどの大患にみまわれ、デンマーク王子アウグステンブルク公から3年間の年金を贈られる。静養のかたわら『三十年戦争史』(1791~93)を書き続け、かつカントの哲学書を耽読(たんどく)して多大の啓発を受けると同時に、その主観主義的美学理論を乗り越えようとして一連の美学論文を書く。なかでも有名なのは『優美と尊厳について』(1793)、『人間の美的教育に関する書簡』(1795)、『素朴的文学と感傷的文学について』(1795~96)である。シラーは、人間の人格的完全性は理性と感性の調和的統一にあるという見地にたち、第一の論文においてそのような人格的完全性を「美しい魂」とよんだ。第二の論文は、近代人にとって「美しい魂」への道は芸術による美的遊戯教育にほかならないことを論じたものである。「人間は、この語の完全な意味において人間であるときにのみ遊ぶのであり、遊ぶときにのみ完全に人間である」ということばは有名。第三の論文は、詩人を二つの類型においてとらえ、自然に即して生き、自然を現実として描く詩人を素朴的詩人、自然を喪失し自然を理想として描くほかない詩人を感傷的詩人と名づけ、人為的な近代文化のなかにあって感傷的とならざるをえない近代の詩人と文学のあり方を論じたものである。
1794年夏、ある対話をきっかけとしてゲーテは急速にシラーと親しくなり、以後シラーの死に至るまでの11年間両詩人は変わることのない友情に結ばれ、相携えてドイツ古典主義を確立する。合計1009通に上る往復書簡は希有(けう)の友情の記念碑であると同時に、貴重な文学史的資料である。95年夏、堰(せき)を切ったように詩想がふたたびあふれ始め、『理想と人生』(1795)や『散歩』(1795)などの思想詩が生まれる。96年秋、三十年戦争のさなかに反逆者として暗殺された皇帝軍の将帥を主人公とする史劇『ワレンシュタイン』制作を開始したが難渋し、97年には一時ゲーテとの競作で物語詩に没頭し、99年春ようやく『ワレンシュタイン』を完成。こののちほぼ1年1作のペースで戯曲を書き上げた。まず、巨大な歴史の波に飲み込まれて万策尽き従容(しょうよう)として死に向かう女王を描いた『マリア・ストゥアルト』(1801)、神から与えられた救国の使命ゆえに地上的愛着を断ち切り戦場に散華(さんげ)する乙女の悲劇『オルレアンの処女』(1801)、2人の反目する兄弟が実の妹とは知らずに愛する悲運をギリシア悲劇に倣って描いた『メッシーナの花嫁』(1803)、最後に、アルプスの大自然を背景にして素朴でたくましい男たちの躍動する自由と正義と人間愛の壮大なドラマ『ウィルヘルム・テル』(1804)。1805年5月9日、急性肺炎のためワイマールで没し、遺作『デメトリウス』は断片に終わった。
シラーはその雄渾(ゆうこん)の戯曲、典雅な思想詩、高潔な理想主義的精神ゆえに今日でもゲーテと並んで敬愛されるドイツの国民的詩人である。両詩人の棺(ひつぎ)はワイマール公の公廟(こうびょう)内に並べて安置されている。生地マールバハにはシラーの生家が保存され、またシラー国民博物館がある。ワイマールにはシラーの住居やゲーテ・シラー文庫がある。
[内藤克彦]
『新関良三著『シラー 生涯と著作』(1959・東京堂)』▽『新関良三編・訳『シラー選集』全6巻(1941~46・冨山房)』
アメリカの経済学者。ミシガン州デトロイト生まれ。1967年にミシガン大学を卒業(経済学士)し、マサチューセッツ工科大学(MIT)で1968年に経済学修士号、1972年に経済学博士号(Ph.D.)を取得。ミネソタ大学、ペンシルベニア大学、MIT、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスなどで教鞭(きょうべん)をとり1982年からエール大学教授。ニューヨーク連邦銀行諮問委員会メンバーなどを務めたこともある。2013年、「株式や債券などの資産価格を長期的に予測する研究の功績」によりノーベル経済学賞を受賞した。シカゴ大学のユージン・ファーマ、ラース・ハンセンとの共同受賞である。
投資家らの合理的行動を前提とした効率的市場仮説に疑問を呈した気鋭のエコノミストであり、ITバブルや住宅バブル(サブプライム危機)に警鐘を鳴らしたことで知られる。多数の著書があり、『投機バブル 根拠なき熱狂――アメリカ株式市場、暴落の必然』Irrational Exuberance(第1版2000年、第2版2005年)は世界的ベストセラーとなった。アメリカの住宅価格動向を示す代表的指標「S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)ケース・シラー住宅価格指数」の生みの親でもある。行動ファイナンス理論の創始者でもあり、専門は行動経済学、金融論、マクロ経済学、統計学、計量経済学など多岐にわたる。
1981年の論文「Do Stock Prices Move Too Much to be Justified by Subsequent Changes in Dividends?」などで、金融市場の分析に投資家心理を柔軟に導入。投資家の判断のゆがみ(バイアス)が将来の配当を過大評価することで、実際の資産価格が配当キャッシュ・フローで計算される理論値を数年にわたって上回った後、次の数年は下回る傾向があることを発見。株式や住宅などの資産価格の動向を、中長期的につかめることを示した。なお2013年のノーベル経済学賞では、投資家の合理性を前提とするファーマと、これに疑問を呈するシラーが受賞しており、立場の異なる学者の同時受賞はきわめて異例である。
[矢野 武 2021年5月21日]
ユリ科(APG分類:キジカクシ科)ツルボ属の総称。秋植え球根草で、ヨーロッパ、アジアなどに分布し、日本のツルボもこの仲間である。葉は根生し、その中心から花茎を1本または数本出し、小さい花を総状につける。花色は青紫色が多いが紫紅色や白色もある。強健で耐寒性も強い。花壇に群生させて観賞するほか鉢植えに向く。秋に日当り、排水のよい場所に植え付ける。繁殖は分球による。おもな種類は次のとおり。
カンパニュラータ(ヒメツリガネズイセン)Hyacinthoides hispanica (Mill.) Rothm.(S. campanulata Ait.)はスペイン、ポルトガル原産。5月にカンパニュラ(キキョウ科ホタルブクロ属)に似た花を多数つける。カンパニュラータは、以前はシラー属に分類されていたが、ヒアシンソイデス属となった。ペルビアナ(オオツルボ)S. peruviana L.は地中海沿岸原産。5月、ごく小さい花を上向きに密生する。シビリカS. siberica Andr.はシベリア原産の小形種で、カンパニュラに似た花を数個つける。チューベルゲニアナS. mischtschenkoana Grossh.(S. tubergeniana Hook.)はイラン北部原産の極早生(ごくわせ)種。2月ころ、葉と花茎を出し、花弁が淡青色で青色の絞りが入った花を数個開く。
[平城好明 2019年3月20日]
イギリスの思想家。ドイツのハンブルク近くのオテンセンに生まれる。オックスフォード大学のベリオル・カレッジを卒業し、生涯同大学のコープス・クリスティ・カレッジのフェロー(特別研究員)であったが、その間アメリカの各大学で教えた。当時圧倒的なヘーゲル哲学に反対し、進化論に共鳴して、真理の先天性、超越性を否定し、真理は人間が自己の目的のもとに実践することによってつくりだす価値にあると考えた。そのため、プロタゴラスの「人間尺度説」をプラトン哲学よりも評価する。この点でプラグマティズムに近いが、自らは、この創造の担い手としての人格、人間を重視する人本(じんぽん)主義(人文主義)humanismを強調した。
[杖下隆英 2015年7月21日]
ドイツ古典主義文学の代表的作家。敬虔な軍人の家に生まれ,ビュルテンベルク公の命により士官学校で法律,後に医学を学ぶ。軍医任官後文学活動を禁じられ,1782年公国を亡命。83年マンハイム劇場脚本家。85年ケルナーChristian Gottfried Körnerの招きでライプチヒへ。87年ワイマールでC.M.ウィーラント,ヘルダーを知る。88年イェーナ大学歴史学教授,K.W.vonフンボルトと交わる。90年結婚,翌年大病。94年以降雑誌《ホーレン》の刊行などゲーテとの交友と協力がはじまる。
彼の作品を見ると,まず処女戯曲《群盗》(1781)と市民悲劇《たくらみと恋》(1784)は,激烈な言葉の躍動と緊迫した場面転換によって,〈シュトゥルム・ウント・ドラング〉の革命的情熱を鮮明に示している。青年期の戯曲にはほかに《フィエスコの反乱》(1783)がある。〈ラウラ〉の歌を含む《1782年までの詞華集》は,早くも彼の思弁的感性を示している。85年ライプチヒ移住後は,《犯罪者》(1786),《見霊者》(1787-89)などの小説を発表。87年最初の古典主義戯曲《ドン・カルロス》を完成,政治的自由と人間性の問題を,理想主義的な主人公への共感を通して荘重に歌い上げた。歴史研究の成果に,《オランダ離反史》(1788),《三十年戦争史》(1791-93)があり,カント哲学研究の成果には,《優美と品位について》《崇高について》(ともに1793)などが,またそれを基礎にしたシラー美学の集大成として《人間の美的教育に関する書簡》《素朴文学と感傷文学について》(ともに1795)がある。独自の思想詩に,芸術と人間性,美と真実の古典主義的統一の理想を歌った《ギリシアの神々》(1788),《芸術家》(1789),《理想》《逍遥》(ともに1795)などがある。ほかにゲーテと共同発表した《クセーニエン》(1796)や,古典期の抒情詩として多くのバラードがある。
晩年には,運命悲劇《ワレンシュタイン》三部作(1799),主人公の悲劇的生涯を死の数日間に凝縮した《マリーア・シュトゥアルト》(1800),形式的に最もまとまった《オルレアンの処女》(1801),合唱隊などの擬古典様式を採りながらロマン主義的要素を持つ《メッシナの花嫁》(1803),民衆的で生き生きとした自由の賛歌《ウィルヘルム・テル》(1804)などのすぐれた古典期の戯曲を次々に発表。1802年には貴族に列せられた。
彼は自由を求める理想主義的国民詩人として青年たちに迎えられたが,イェーナのロマン派の拒否にあった。文学から歴史・哲学・美学まで幅広い著作を残したシラーは,後世各時代の持つ政治的・社会的・精神的色彩を反映して,例えば政治的扇動家,自由と道義の戦士,愛の殉教者といったようにかたよった評価を受ける時もあったが,それらを総合した真に調和ある普遍的人間性こそ彼の理想であり,彼の生涯はかかる理想の実現の可能性を求めての苦闘の歩みであった。シラーの業績の現代的意義もまたここにある。
執筆者:長屋 代蔵
イギリスの哲学者,プラグマティスト。ラグビー校,オックスフォード大学(ベイリオル・カレッジ)で学び,コーネル大学,オックスフォード大学(コーパス・クリスティ・カレッジ),南カリフォルニア大学などで教えた。1921年にアリストテレス協会の会長をつとめ,26年にはブリティッシュ・アカデミーの会員に選ばれている。シラーは当時イギリスの哲学界を支配していたドイツ観念論の影響を受けながらもヘーゲル学派の一元論的絶対主義には強く反対して,独自の〈人格的観念論〉を唱えた。世界におけるいっさいの事象は人間との関係においてのみ--人間の実践的要求,目的,活動に対してのみ--意味と価値を有し,あらゆる知識や価値は人間主観の産物であり,〈真理〉〈実在〉もわれわれが真理として,実在として認識するもの,すなわちわれわれの認識の仕方によって規定される。したがってそれらは相対的で,絶えざる生成の過程にあり,決して人間から独立に存在する絶対的なもの,不変のものではないと説く。彼はそれを〈人本主義〉〈人格主義〉〈プラグマティズム〉とも称している。それはW.ジェームズのプラグマティズムに最も近い思想で,イギリスにおけるプラグマティズムを代表するものである。著書にはジェームズに捧げられた《人本主義--哲学論集》(1903)のほかに,《人本主義の研究》(1907),《形式論理学》(1912)などがある。
執筆者:米盛 裕二
ユリ科ツルボ属Scillaの秋植え球根(鱗茎)植物。ツルボ属はヨーロッパ,アジア,アフリカなどに分布し,約100種もあり,日本のツルボもこの仲間である。花も姿もさまざまだが,ヒアシンスを小型にしたようなシラー・シビリカS.sibirica Hawやシラー・ヒスパニカS.hispanica Mill.,星形の小花が傘形に密生して咲くシラー・ペルビアナS.peruviana L.がよく知られていて,春咲球根類のわき役ともいえるかれんな花をつける。草丈は低いもので10cm,高いもので30~40cmとなり,開花期は3~5月,花壇,鉢植え,庭の一隅によく調和し,水栽培も可能な種類がある。紫,濃青,青,桃,白と花色が豊富なことと,球根は皮がなく小さなジャガイモに似ているのが特徴である。シラーは耐寒性が強く,日当りでも半日陰でもよく育つ。10月に密植にして植え込み,排水に留意する。繁殖は旺盛で,2~3年植えたままにすれば,みごとに群生する。中国産のシラー・シネンシスS.sinensis(Lour.)Merr.は薬用とされる。また日本産のツルボは,路傍や耕作地の雑草で,初秋に桃色の花を多数つける。
執筆者:水野 嘉孝
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1759~1805
ドイツの詩人。『群盗』によって「疾風怒濤(しっぷうどとう)」の作家としてデビューするが,のち歴史とカント哲学の研究により古典的調和を求めるようになる。1804年以降,ヴァイマルにおけるゲーテとの交流を通じてドイツ古典主義文学を確立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…シラーの完成した最後の韻文戯曲。1804年作。…
…この運動の主要な劇作家は,クリンガーとJ.レンツの対比に見られるごとく,情熱的天才タイプと感傷的情緒不安定タイプに大別される。代表的戯曲を傾向別に挙げると,まず自己の本性の無限の実現を邪魔するいっさいの生活規範を否認する〈どえらい奴grosser Kerl〉を描くゲーテの《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773),クリンガーの《双生児》(1776)など,次に普遍的人間的自由への革命的要請を歌いあげたシラーの《フィエスコの反乱》(1783),《たくらみと恋》(1784),第3に社会における個人の自由を求めたライゼウィッツJohann Anton Leisewitz(1752‐1806)の《ターレントのユーリウス》(1776),シラーの《群盗》(1781),そして社会的被抑圧者のための正義を訴えたワーグナーHeinrich Leopold Wagner(1747‐79)の《嬰児殺し》(1776),レンツの《軍人たち》(1776)に大別される。しかし,これらの独創的な天才たちが提示した文学の本質に関する基本的見解は,ゲーテやシラーの古典主義作品,さらにはロマン主義文学に受け継がれ,20世紀の表現主義文学にもつながる重要な発言であったが,この運動の持つ既成秩序に対する抗議,反抗といった側面は過渡期的現象に終わり,急速に衰退していった。…
…出版に際しては,時のプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世に献呈された。この交響曲の特徴は先例のない規模の大きさと,終楽章にJ.C.F.シラーの詩《歓喜に寄せてAn die Freude》による独唱と合唱を用いたことである。〈全人類が同胞になる〉というヒューマニズムの理想を歌い上げた終楽章は,今日なお聴衆に深い感激を喚起せずにはおかない。…
…劇作では,フランス古典主義演劇の形式を退けて,シェークスピアに範をとる多場面構成で,強烈な個性をもつ人物をもつ戯曲が求められた。ゲーテは史劇《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773)によってその要望を満たし,70年代中葉にはほかにも注目すべき劇作が発表されたが,J.C.F.シラーの《群盗》あたりからこの運動は退潮した。ゲーテはワイマールに移ってから,しだいに古典主義的な立場をとり,ワイマール宮廷劇場の監督として様式の確立に腐心するようになった。…
…もう一つは両極的原理たる自然と精神との調和という道徳的意義の発現にある。J.C.F.シラーは人間の身体運動も道徳性をはらむ精神の表現であることに着目し,感性と理性,性向と義務との全き調和を〈美しき魂schöne Seele〉と呼び,これの発現こそ優美にほかならぬとして以後の優美論の方向を定めた。だがさかのぼればギリシア語カリスcharisに発する概念ゆえ論者は他にも数多くあり,それら諸説の検討成果を大著《優美の美学》(1933)にまとめたのはバイエRaymond Bayerである。…
…
[ドイツにおけるロマン派演劇]
演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテ,シラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。…
…路傍,土手などの人里近くの草地に生えるユリ科の多年草。8~9月の花期には紫色の花を密につけた穂状花序がよく目だつ。花茎は高さ20~40cm。無毛で葉はつかない。花被は6枚で長さ3~4mm,おしべは6本で花被と同長。子房は3室。蒴果(さくか)は倒卵形で長さ4~5mm。花後に出る根出葉は線形で長さ10~30cm,花時以外は目だたない。地下には鱗茎がある。日本全土に分布し,ウスリー,朝鮮半島,中国大陸,台湾にもある。…
…細胞遺伝学の研究材料として広く研究されているものの一つである。 ツルボ属Scilla(英名squill)は約100種を含む大きな属で,ヨーロッパ,アフリカ,アジアに分布する。日本は属としての分布の東端にあたり,ツルボ1種のみが知られている。…
※「シラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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