平安中期の文人。道真(みちざね)の孫、高視(たかみ)の子。菅三品(かんさんぽん)と称された。45歳でようやく対策及第、以後長く内記、弁官を務めたのち、文章博士(もんじょうはかせ)、大学頭(かみ)、式部大輔(しきぶのたいふ)等の学者としての顕職を歴任したが、公卿(くぎょう)昇任の望みはなかなかかなえられず、83歳でようやく従三位(じゅさんみ)に叙せられたものの、その年天元(てんげん)4年9月8日没した。大江朝綱(おおえのあさつな)・維時(これとき)と並ぶ村上(むらかみ)朝の代表的文人として、『坤元録屏風詩(こんげんろくびょうぶし)』の詠作、元号の勘申(かんじん)、詔勅・上表等の制作などに活躍した。さらに村上天皇の勅に応じて954年(天暦8)に提出された意見封事(ふうじ)三か条は、政治の改革を指摘した論文で、彼が単なる文人ではなかったことを示す。詩集『文芥(ぶんかい)集』のほか『叙位略例』の著作があったが、ともに散逸。詩文は『扶桑(ふそう)集』『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』などに多く残る。後代その繊細艶麗(えんれい)な詩風が愛好され、『和漢朗詠集』には本朝詩人中もっとも多くの作が引かれる。
[後藤昭雄]
(村井康彦)
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平安時代の漢詩人,学者。内記,弁官,式部大輔,文章博士などを歴任し,従三位に至ったので菅三品(かんさんぼん)と呼ばれる。菅原高視の子で道真の孫。家学である文章道にすぐれ,源為憲,大江匡衡らの文人は皆その添削を仰いだ。954年(天暦8)には村上天皇の勅に応じて3ヵ条の意見封事を上奏した。作品は《本朝文粋》《扶桑集》その他に数多く,《江談抄》にも逸話が残る。和歌も《拾遺集》に1首入集。
執筆者:川口 久雄
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…たとえば,759年(天平宝字3)には,中納言,参議,少僧都,播磨大掾らの封進した律令制刷新策が採用頒行されており,また823年,公卿に限って徴された意見は,翌年(天長1)良吏賢才登庸策六箇条が採択施行されている。さらに,914年(延喜14)三善清行の奉った《意見十二箇条》と957年(天徳1)菅原文時の奉った《封事三箇条》(《本朝文粋》等所収)は,延喜・天暦時代の名文としても著名。ただし前者には具体的な問題点と対応策が明示されているのに対して,後者は抽象的,懐古的な叙述に終わっている。…
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