日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅木志雄」の意味・わかりやすい解説
菅木志雄
すがきしお
(1944― )
現代美術家。岩手県盛岡市生まれ。本名菅勝典(かつのり)。1960年代末から1970年代に展開された美術運動「もの派」を代表する作家の一人。1964年(昭和39)多摩美術大学に入学。入学したのは絵画科であったが、造形作家斎藤義重(よししげ)の教室に進み、まだ在学中の1967年に公募展のシェル美術賞展で一等賞を獲得したのを機に、立体作品制作へと転換する。1968年に大学を卒業、以後斎藤教室の多くの同級生とともに「もの派」の活動に身を投じる。
「もの派」とは、美術批評家峯村敏明(1936― )によって「1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやモノの働きから直かに何らかの芸術表現を引きだそうと試みた」運動と定義された。そのなかでも菅はものともの、ものと作品の設置される場所との関係性を強く意識し、一見無造作と思えるほど素材のまま設置するなど、作品を「作る」という行為そのものを問うインスタレーションを制作する。1970年にはジャパン・アートフェスティバルで大賞を受賞するなど、その独自性は早くから評価され、パリ青年ビエンナーレ(1973)やベネチア・ビエンナーレ(1978)などの国際展を通じて海外でも知られるようになる。
若手時代にはものとものとの関係性が中心的なテーマだったのに対し、歳を重ねるとともに作品の置かれる環境や場に注目するなど関心のあり方に変化があるが、「もの派」作家としての基本的なスタンスは変わらず、精力的に作品制作を続けた。
また、1969年には、美術出版社主宰の「芸術評論募集」に桂川青(せい)の名前で応募した論文「移転空間――未来のノートから」が佳作入選したのをはじめ、理論家としても優れ、多くの美術論を執筆、発表しており、特に現象学への深い傾倒が知られている。
1999年(平成11)には横浜美術館で大規模な個展が開催され、スケールの大きな作品を披露したほか、サスペンス風の物語のなかに現象学の用語をちりばめた映画『存在と殺人』(1998~99)を公開した。またカタログと併せて、長年にわたって発表した文章をまとめた『菅木志雄著作選集――領域は閉じない』(1999)を刊行、多彩な活動が紹介された。1982~1989年、多摩美術大学講師を務めた。夫人は作家、詩人の富岡多恵子。
[暮沢剛巳]
『『菅木志雄著作選集――領域は閉じない』(1999・横浜美術館)』▽『「菅木志雄――スタンス」(カタログ。1999・横浜美術館)』