萬寿寺(読み)まんじゆじ

日本歴史地名大系 「萬寿寺」の解説

萬寿寺
まんじゆじ

[現在地名]大分市金池町五丁目

江戸時代の東新ひがししん町東方にある臨済宗妙心寺派の寺。蒋山と号し、本尊釈迦如来興聖萬寿こうしようまんじゆ禅寺とも号した。現在地に移ったのは寛永八年(一六三一)、あるいは一〇年と伝え、もとは南方の大分川左岸にあった。中心域と考えられる地域からは礎石・瓦などが出土している(大分市史)。徳治元年(一三〇六)大友貞親が創建して開基となり、直翁智侃を筑前博多承天じようてん寺から請じて開山としたことに始まるという(応永六年一二月「東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚塔銘」続群書類従)。建立の動機は、貞親が北条貞時から伽藍を建立して僧を招請し、治世の助けとするよういわれたことによると伝える(豊鐘善鳴録)。以後大友氏の外護を受けて隆盛をきわめることになる。嘉暦二年(一三二七)七月七日大友貞宗は手印誓文をもって、寺領である判多はんだ(判太)郷・宝満寺、坂田さかた寺・松本まつもと(現竹田市)、光吉新開・寺辺屋敷地等の移動禁止を定めた。しかしその後、萬寿寺北辺屋敷畠地等に保寿寺が建立され、当寺には替地として古国府ふるごう内の闕所地が与えられたが、そこは生産力の低い土地であったため、当寺の寺用は欠之してしまった。ところが保寿寺が数年のうちに荒廃したので、文和四年(一三五五)主座智徹らがもとのごとく返付されるよう申請している(同年六月一八日「萬寿寺首座智徹等連署書状」大友文書)。その間、建武四年(一三三七)には五山に次ぐ十刹に列せられ(空華集)、暦応四年(一三四一)八月二三日には院宣により十刹で第一〇位に定められた(扶桑五山記)。文和元年一二月二七日には、元光西堂が将軍足利義詮から住持に補任されている(「足利義詮公帖」前田家所蔵文書)


萬寿寺
まんじゆじ

東福寺北総門内にある。白河天皇里内裏の一つである六条内裏(現京都市下京区)内に、承徳元年(一〇九七)皇女郁芳門院子内親王の遺宮を仏寺に改め、六条御堂と称したのに始まる(「中右記」承徳元年一〇月一四日条)。「京城萬寿禅寺記」によれば、正嘉年中(一二五七―五九)六条御堂で浄土教を修していた十地上人覚空(爾一)とその弟子東山湛照(慈一宝覚)とが、円爾弁円に帰依して禅宗に改宗し、六条御堂を萬寿禅寺と改称した。弘長元年(一二六一)一一月湛照が開堂、同三年関白藤原良実は和泉国長滝包富ながたきかねとみ荘を覚空に寄進して覚空・湛照を両開山となし、文永九年(一二七二)一一月に供養を修した。御所の内なので山号をつけなかったという(下学集)。嘉元三年(一三〇五)七月、崇福そうふく(現福岡市博多区)に住していた南浦紹明亀山上皇に招かれて上洛し、当寺に住持した。


萬寿寺
まんじゆじ

[現在地名]仙台市高松二丁目

小田原山本おだわらやまもと丁の北、小田原高松おだわらたかまつ通にあり、黄檗宗。開元山と号し、本尊は釈迦牟尼仏。元禄九年(一六九六)四代藩主綱村が加美かみ色麻しかま(現色麻町)廃寺安養あんよう寺の寺籍と本尊を小田原高松に移し、七堂伽藍を建立し、山号・寺号を改め、月畊道稔を開山とした。当時堂内の彫刻などはすべて極彩色で壮麗を極め、藩内有数の名刹であった。本尊は虚空蔵菩薩であったが、白石しろいし城主片倉小十郎の母少林院が京の仏師法橋忠円作の釈迦牟尼仏像を寄付したのでこれを本尊とした。宝永三年(一七〇六)綱村夫人仙姫(老中稲葉正則の娘)が没し当寺に葬られ、近世期には一門格、一〇〇石の寺領を付せられ、ほかに禅堂料五〇石などを給せられていた(「封内風土記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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