董必武(読み)トウヒツブ(英語表記)Dǒng Bì wǔ

デジタル大辞泉 「董必武」の意味・読み・例文・類語

とう‐ひつぶ【董必武】

[1886~1975]中国政治家湖北省出身。1921年中国共産党創立湖北省代表として参加。長征に参加し、第二次国共合作期には、共産党代表として周恩来らと武漢重慶に駐在した。中華人民共和国成立とともに国家副主席、全国人民大会代表など要職歴任。1972年国家主席代理となる。トン=ピーウー。

トン‐ピーウー【董必武】

とうひつぶ(董必武)

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改訂新版 世界大百科事典 「董必武」の意味・わかりやすい解説

董必武 (とうひつぶ)
Dǒng Bì wǔ
生没年:1886-1975

中国の政治家。日本留学中,中国同盟会に入り,1911年,武昌辛亥革命に参加。21年中国共産党創立大会に参加,国共合作で国民党中央委員候補にもなったが,国共分裂ソ連に亡命した。32年帰国してソビエト区に入り,中央党学校長,長征にも参加した。林伯渠,徐特立らとともに党の元老として董老と呼ばれた。国共再合作後は重慶辦事処に駐在して,国民参政会議員にもなり,周恩来を助けて国民政府との交渉にあたった。49年中華人民共和国成立とともに副首相,54年最高人民法院長,59年国家副主席。文化大革命でも批判の外におかれ,劉少奇失脚後は国家主席代理をつとめた。73年10全大会では党政治局常務委員,75年国家主席制の廃止で人民代表大会常務副委員長となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「董必武」の意味・わかりやすい解説

董必武
とうひつぶ / トンピーウー
(1886―1975)

中国の政治家。湖北省の生まれ。日本の法政専門学校留学中に中国同盟会に加盟辛亥(しんがい)革命では武昌蜂起(ぶしょうほうき)に参加、1921年の共産党の創立に湖北省代表として参加した。国共分裂後の1928年からソ連に留学、1932年帰国後は江西ソビエトで教育工作に従事。長征に参加して、第二次国共合作期には中国共産党代表として周恩来らと武漢・重慶(じゅうけい)に駐在した。1945年4月のサンフランシスコ講和会議には中共を代表して参加。戦後の内戦期の1948年華北人民政府主席。新中国成立とともに国家副主席、共産党中央委員、全国人民代表大会代表など要職を歴任、1972年国家主席代理、1975年中国共産党政治局常務委員に再選された。

[加藤祐三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「董必武」の意味・わかりやすい解説

董必武
とうひつぶ
Dong Bi-wu

[生]光緒12(1886).3.5. 湖北,黄安
[没]1975.4.2. 北京
中国の政治家,中国共産党の指導者の一人。宣統3 (1911) 年武昌起義に参加し,1921年中国共産党創立大会に湖北省代表として出席。 24年国共合作のもとで国民党にも加入し,26年国民党中央執行委員候補となった。 27年の国共分裂後,28~32年ソ連に留学。帰国後,江西ソビエト区に入り,中央党学校長をつとめ,長征に参加した。日中戦争中は重慶で国共交渉にあたり,45年4月のサンフランシスコ会議に中国共産党代表として出席。戦後は南京で国共会談に参加。 48年華北人民政府主席,49年政務院副総理を経て,中華人民共和国副主席,主席代理,党中央政治局委員などの要職にあった。

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百科事典マイペディア 「董必武」の意味・わかりやすい解説

董必武【とうひつぶ】

中国の政治家。湖北省の人。中国共産党の創立大会に参加し,江西ソビエト区では教育部門を担当。抗日戦争中から戦後にかけて国共関係の調整に尽力し(国共合作),華北人民政府の基礎をつくった。文化大革命においても批判の外におかれ,1959年以来国家副主席,1968年―1975年国家主席代理。

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