沼村(読み)くぐいぬまむら

日本歴史地名大系 「沼村」の解説

沼村
くぐいぬまむら

[現在地名]藤沢市鵠沼くげぬま鵠沼東くげぬまひがし鵠沼橘くげぬまたちばな一―二丁目・鵠沼石上くげぬまいしがみ一―三丁目・鵠沼海岸くげぬまかいがん一―七丁目・鵠沼松が岡くげぬままつがおか一―五丁目・鵠沼桜が岡くげぬまさくらがおか一―四丁目・鵠沼藤が谷くげぬまふじがや一―四丁目・鵠沼神明くげぬましんめい一―五丁目・本鵠沼ほんくげぬま一―五丁目・鵠沼花沢くげぬまはなざわ町・南藤沢みなみふじさわ・藤沢五丁目・ほん町一―四丁目

南に相模湾を望み、引地ひきじ川とさかい(片瀬川)との間の低地に位置し、東は片瀬かたせ村、北は藤沢宿に接し、北西部を東海道が通る。村名はくぐい(白鳥)などの鳥が生息していたことから起こったといい、「風土記稿」に「久々比奴末」と訓ずる。天平七年(七三五)の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)にみえる「土甘とかみ郷」にあたる。「平家物語」巻一〇(海道下)にみえる「小磯大磯の浦々、やつまと、とがみが原」の「とがみが原」がその遺名で、源実朝「金槐集」には「鳥狩しにとがみが原といふ所に出ではべりし時あれたる庵の前に蘭さけるをみてよめる」という詞書の一首がある。「海道記」は「相模川を渡りぬれば、懐島に入りて砥上の原に出づ」と「砥上」をあてている。

沼村
ぬまむら

[現在地名]岸和田市沼町・筋海すじかい町・並松なんまつ

岸和田城下東の海浜に位置する。天保郷帳には沼間ぬまま村とあり、「古ハ沼村」の注記があるが、「寛文朱印留」にも沼間村とみえる。他の郷帳類には沼村と記される場合が多い。村内のあれ池に発するいな川が北流し、村との村境を北西に流れて海に注ぐ。府中ふちゆう街道が村を東西に貫通し、久米田くめだ道が南東から北西に村内を通り、当村で合する。紀州街道沿いの地内は沼村領新屋敷として城下に組込まれ、のち並松町と呼称された。またその立地条件から城下廻り村として筋海町(屋敷)瓦屋かわらや町・餌差えさし町の町並が形成された。中世に沼間庄があり、当地一帯に所在した庄園と考えられる。

沼村
ぬまむら

[現在地名]和田町沼

松田まつだ村の北西、温石おんじやく川流域に位置し、西は岩糸いわいと村・小戸おど(現丸山町)。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高二八一石余、うち田方一七八石余。里見氏給人領。元和六年(一六二〇)東条藩西郷氏領となり(東条藩領知目録)、元禄五年(一六九二)の同氏の移封まで続く。正保郷帳では田高一一四石余・畑高六六石余。以後幕末まで村高に変動はない。元禄五年の年貢割付状(沼区有文書)によれば幕府領、反別一九町一反余、納合米三二石六斗余(うち新田取米八石六斗余)・永七貫一四二文(うち山銭二一八文)。享保六年(一七二一)旗本大嶋領となり、天保一四年(一八四三)まで続く(「寛政重修諸家譜」、元文村高帳など)。同年武蔵忍藩領となるが(忍藩領郷村高帳)、嘉永六年(一八五三)上知され、旧高旧領取調帳では上野前橋藩領。

沼村
あしぬまむら

[現在地名]益子町芦沼

小貝こかい川支流小宅おやけ川の最上流にあり、谷間を東西に真岡もおか茂木もてぎを結ぶ道が通る。三方は山林で囲まれ、東は天子あまこ(現茂木町)、南は大平おおひら村。南西の小宅村方向にのみ低地が開ける。青田あおた坪・根廻ねまわり坪・沢坪・三反田さんだだ坪・夕日向ようひなた坪・沼平ぬまだいら坪・蛭田ひるた坪・倉田くらた坪の八坪からなり、うち青田坪は小宅村の孕入地で、一部が七井なない村と接する。慶長一五年(一六一〇)以降茂木藩(のち常陸谷田部藩)領。慶安郷帳に村名がみえ、田八八石余・畑三七石余。

沼村
ぬまむら

[現在地名]関川村沼

あら川の支流沼川が北流し、小綱木こつなぎ川・大里おおり沢が合流する。北西の大内淵おうちぶち村からえのき峠を越えて南東のはた村へと米沢街道が通る山間の村。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分ぬま村」とみえ、本納二石一斗三升・縄高六石九斗、家二軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領。正保国絵図には三〇石余とある。万治二年(一六五九)の検地時には高四九石九斗余・田畑六町一反二畝余(「高反別取米書上帳控」平田家文書)。文政九年(一八二六)の家数三三・人数一四六、馬一二(同一一年「家数人別書上帳」渡辺家文書)

沼村
ぬまむら

[現在地名]小倉南区沼本町ぬまほんまち一―四丁目・沼緑町ぬまみどりまち一―五丁目・沼南町ぬまみなみまち一―三丁目・沼新町ぬましんまち一―三丁目・沼・葛原東くずはらひがし三丁目・葛原本町くずはらほんまち五丁目・葛原高松くずはらたかまつ一丁目・中吉田なかよしだ一丁目・上吉田かみよしだ一丁目・同三丁目

曾根そね村の北、竹馬ちくま川下流左岸に位置する。文明三年(一四七一)四月一五日大内政弘寄進状案(山口県文書館蔵妙喜寺文書/山口県史 史料編中世三)によると、政弘は周防国妙喜みようき(現山口市)に「豊前国規矩郡内沼間・吉田・江良殿御跡等」を寄進している。戦国期、門司もじ(現門司区)をめぐる毛利氏と大友氏との攻防の舞台となり、永禄四年(一五六一)と推定される一一月一三日の仁保隆慰等連署書状(萩藩閥閲録四)に「去九月十三日、豊後衆至沼間江口相動」とみえる。

沼村
ぬまむら

[現在地名]岡山市沼

中尾なかお村の東、南流するすな川の右岸にあり、山陽道が通る。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)居都こづ庄に村名があり、寛永備前国絵図では高三五四石余、正保郷帳には枝村に赤坂あかさか村が載る。「備前記」によると山寄りの集落で、枝村として沖益おきます新田・楢部ならべ八塚やつか・赤坂をあげ、村前に山陽道の茶屋があり、赤坂には一里塚があると記す。「備陽記」によると田畠二七町三反余、家数五〇・人数三〇八、池一一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高五八九石余、蔵入。

沼村
あしぬまむら

[現在地名]上河内村芦沼、塩谷郡氏家うじいえ大中おおなか

下小倉しもこぐら村の南に位置し、東部を鬼怒川が、中央部を西鬼怒川が南流し、南北に小路がある。宇都宮氏旧臣姓名書に芦沼村の中里七郎衛門がみえる。慶長七年(一六〇二)宇都宮藩領のとき芦沼村六二八石(東芦沼三〇〇石・西芦沼三二八石)という。寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る。慶安郷帳では高四二八石余、田方三〇四石余・畑方一二三石余。

沼村
ぬまむら

[現在地名]清水町沼

楠本くすもと村の東、飯盛いいもり(七九八メートル)の南側山腹に位置する。村は東番ひがしばん西番にしばん中番なかばん川端かわばたの小名に分れ、「続風土記」に「人家大体方十町許の間にあり、村中に大ぶけといふ田地あり」とある。

慶長検地高目録によれば村高三一二石余、小物成五斗三升一合。享保九年(一七二四)の沼村御毛見町積指出帳(堀江家文書)によれば家数七三で内訳は庄屋一・本役三八・半役一一・無役二三、人数四八六(男二五六・女二三〇)、牛三〇。

沼村
ぬまむら

[現在地名]妙高村樽本

土路どろ川は最上流の上樽本かみたるもとから上流では、沼川と名称が変わる。沼川に沿って開けた盆地にかつて樽本村枝村の沼村があった。東に信州国境をなす八人坊主はちにんぼうず(毛無山)があり、その南に沼池(現長野県飯山市)がある。当地を経て斑尾まだらお山麓を抜け、信州古海ふるみ(現長野県上水内郡信濃町)へ至る斑尾街道があったという。斑尾街道の伝説と「沼」の地名から「延喜式」兵部省に載る沼辺ぬのへ駅があったとする説もある。

沼村
ぬまむら

[現在地名]館山市沼

岡上須賀おかうえすか村の西に位置し、村内北部、かがみヶ浦に面する浦方は柏崎かしわざき浦とよばれた。保元の乱で源義朝に従った安房国の沼平太(保元物語)の名字の地とみられる。天正一二年(一五八四)四月二八日、里見義頼は「沼之郷」において屋敷分の田地一貫代を岩崎与次衛門に与えている(「里見義頼充行状」岩崎家文書)。与次衛門(のち与次右衛門とも)は他国の商船が入津する館山城下の商人であった。

沼村
ぬまむら

[現在地名]八尾市沼一―四丁目・沼

志紀郡に属し、新大和川の右岸(北側)に位置する。西は同郡太田おおた村、東は柏原かしわら(現柏原市)。村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で四五〇石余、承応三年(一六五四)写の河州一国村々高帳(小川家文書)でも同高だが、「外ニ六拾四石八斗弐升新検増」の追記がある。これは延宝検地による増高を記したものと考えられるが、宝永元年(一七〇四)大和川付替えで潰地が五町五反余(高八〇石余)あった(大阪府全志)ため、元文二年(一七三七)の河内国高帳では四三五石余となっている。

沼村
ぬまむら

[現在地名]津山市沼・弥生町やよいちよう

津山城下の北に位置する南北に細長い村で、中央以西は平地部でみや川に達し、東部は南北にやや小高い丘陵地が続く。東南条とうなんじよう郡に属する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方二三一石余・畑方四〇石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では三四二石余、うち改出高四九石余・開高二二石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では本村三一七石余・町作地二五石余。「東作誌」では三〇戸・一一三人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では二九戸・一一四人。

沼村
ぬまむら

[現在地名]浜北市沼

長上ながのかみ郡に所属。木船きぶね村の東、天竜川右岸、馬込まごめ川上流左岸に位置する。当村は天正一七年(一五八九)徳川家康の家臣太田沼之助が西美園にしみその横須賀よこすか・木船の三ヵ村の間隙の野河原空地に新田開発をしたことに始まるという(沼区有文書)。この開発には木船村市左衛門との間に境界争いが起き、仲介者が入り境杭を立て、新田開発の一部を木船村分としたが、市左衛門の横暴が続き、寛永六年(一六二九)に沼新田の六郎兵衛は奉行所へ訴え出た。その後も木船新田・横須賀村・沼新田村との間に開発をめぐる争いが起き、開発地の経営は安定しなかった。沼之助は山城国八幡宮の神竹の根を分けてもらい、自宅に植え、元和元年(一六一五)以降浜松城主に旗竿・幟竿として献上した(同文書)

沼村
はすぬまむら

面積:九・七二平方キロ

山武郡の東部に位置し、東は太平洋に臨む。北部は横芝よこしば町・松尾まつお町、南西部は成東なるとう町と接する。海岸一帯は九十九里浜の中央部で、古くは栗山くりやま川が村域を流れていた。源頼朝に殺害された平広常の孫光宗が従者二七人を伴って当地に逃れ、低湿地帯の開拓を進めたという伝承がある。光宗は浄土宗極楽寺の創建にかかわったとされ、これを本寺とする浄土宗寺院が鎌倉時代以来多く建立されている。江戸時代は武射むしや郡に属する二村であったが、村高により蓮沼三千石と称された。明治九年(一八七六)蓮沼村と平野ひらの新田の二ヵ村は第九大区第七小区に属した。

沼村
ぬまむら

[現在地名]氷上町沼

東端を佐治さじ(加古川)が流れ、南は御油ごゆ村。山陰道が通り一里塚がある。永正一六年(一五一九)八月一二日の龍沢庵承玖請文(天龍寺文書)に「宝篋院末寺丹波国沼妙勝寺之事」とあり、宝篋ほうきよう(当時は現京都市北区)末寺である沼の妙勝寺(現明勝寺)住持に龍沢庵承玖が補任され、今後毎年五〇〇文の末寺銭を納入することを誓約している。明勝みようしよう寺には「沼豊院殿繁林良昌大居士」の銘のある天正二年(一五七四)の石造五輪塔がある。

沼村
ぬむら

[現在地名]玉野市沼

山田やまだ村の南に位置し、瀬戸内海に突き出た崎の北半分と先端周辺を村域とする。慶長九年(一六〇四)の検地帳(慶安二年写、三宅文書)では田三町一反余・畠三町八反余・塩浜一反八畝余、村高八七石余、屋敷持名請百姓は長福ちようふく(のち廃寺)を含め八人、下人百姓二人を数える。寛永備前国絵図では高七九石余。享保六年(一七二一)の家数一九・人数一三五、船四(備陽記)、文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高七九石余、直高六九石余で蔵入、田二町八反余・畑三町八反余・塩浜二反三畝余、池一〇・樋一六・井戸三、家数三四・人数一七二、船五、牛二〇、塩竈家・畳屋・左官各一軒、桶屋三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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