日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原実遠」の意味・わかりやすい解説
藤原実遠
ふじわらのさねとお
(?―1063)
平安中期の伊賀国の領主。大蔵大夫清廉(おおくらのだいぶきよかど)の子。左馬允(さまのじょう)。父の所領を受け継ぎ、私営田領主の典型とされている。伊賀、阿拝(あえ)、山田、名張(なばり)の全4郡に多くの所領をもっていた。私宅は伊賀郡神戸郷(かんべのごう)(三重県伊賀市)にあり、同郡猪田(いだ)郷(同)が所領の中核であったと考えられる。彼の死後25年たった1088年(寛治2)の在地の古老の言によると、実遠は当国の猛者(もさ)であって、その所領はどの郡にもあり、郡ごとに田屋(たや)を建てて百姓らに自分の田をつくらせ、国内の人民はみな彼の従者として服仕していた。このような直接経営であるから、在京領主のように加地子(かじし)などはとらなかったというのである。しかし1028年(長元1)の私宅火災ころからしだいに所領経営が困難となり、東大寺とのつながりを深めるなど懸命の努力にもかかわらず再建に成功しなかった。彼に1人の跡継ぎとなる男子もなかったことも経営没落の大きな要因であろう。1056年(天喜4)には養子の甥(おい)藤原信良にその所領を譲っている。この実遠の所領のうち名張郡のものは、しだいにその子孫の手から離れて東大寺領となっていき、黒田荘(くろだのしょう)の出作(でづくり)・新荘とされていった。
[黒田日出男]