平安前期の廷臣。太政大臣基経長男。母人康親王女。本院大臣ともいう。886年(仁和2)光孝天皇の加冠により宮中で元服,正五位下。翌年従四位下,左近衛中将,蔵人頭。890年(寛平2)従三位,891年父が没するが参議,892年権中納言,897年6月大納言,左大将,氏長者となる。同時に宇多天皇に抜擢された菅原道真も権大納言,右大将となり,同年7月天皇は醍醐天皇に譲位,二人に新帝幼少の間政務を委任した。899年(昌泰2)左大臣,道真は右大臣となるが,宇多院の信任は道真の方が厚かった。901年(延喜1)道真は天皇の廃立を企てた罪で配流されるが,時平を中心とする藤原氏や源氏の策謀と考えられる。そのため時平は後世悪名が高いが,政治家としては優れ,醍醐天皇をたすけて荘園整理令などの延喜の諸改革を推進し,《延喜格式》《日本三代実録》の撰修にも関与した。ただし男顕忠らは納言に昇ったが,政権の主流は弟忠平の流が継いだ。
執筆者:黒板 伸夫
浄瑠璃,歌舞伎の《天神記》の世界に,時平(しへい)は〈公家悪(くげあく)〉の役柄として登場する。もっとも著名な戯曲に《菅原伝授手習鑑》があげられるが,御霊として神格化された菅原道真に対置して,時平も霊的な性格が付与される演出(車引の段)となっている。時平には笑い癖があったと伝えられており(《大鏡》),これをもとに《天満宮菜種御供(なたねのごくう)》が並木五瓶の手で書かれ,演者初世嵐雛助の好演によって,《時平の七笑》として名高い。この作中でも時平は陰険な策謀家として描かれている。
執筆者:小池 章太郎
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(瀧浪貞子)
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平安前期の律令(りつりょう)官人。太政(だいじょう)大臣基経(もとつね)の長子。母は四品弾正尹(だんじょうのかみ)人康(ひとやす)親王の女(むすめ)。名は「しへい」とも読む。886年(仁和2)光孝(こうこう)天皇に加冠されて正五位下に叙して以来、父祖の勢威を背景に要職を歴任、899年(昌泰2)左大臣に進む。しかし、同時に右大臣に任じられた菅原道真(すがわらのみちざね)が、藤原氏の専権を抑えるために宇多(うだ)天皇以来重用されていたので、家格を超えた道真の立身を非とし菅原氏の優勢を嫌う勢力と謀ってこれを排斥、901年(延喜1)道真を大宰権帥(だざいごんのそち)に貶(おと)して藤原氏の地位を確保した。時平は律令制の維持に努める諸策を進め、また『日本三代実録』『延喜式(えんぎしき)』の撰修(せんしゅう)に関与したが、延喜9年4月4日、39歳で死去。厳格な政策が恨まれ、その早逝は道真の祟(たた)りといわれた。著書に『時平草子』『外記蕃記(げきばんき)』などがある。
[谷口 昭]
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871~909.4.4
平安前期の貴族。本院大臣と称する。父は基経。弟に忠平,妹に温子・穏子,子に敦忠らがいる。886年(仁和2)元服の際,光孝天皇が加冠し正五位下の位記も天皇みずから筆をとった。蔵人頭(くろうどのとう)をへて890年(寛平2)従三位,翌年参議。ついで中納言・大納言に昇り,廟堂の首班となる。宇多天皇の譲位後,蔵人所別当・正三位。宇多は醍醐天皇の長じるまで時平と寵臣菅原道真(みちざね)に政務をまかせた。899年(昌泰2)左大臣。901年(延喜元)には従二位となり,右大臣道真を左遷。翌年封2000戸を賜る。907年正二位。贈正一位太政大臣。「大鏡」は道真左遷のゆえに子孫続かずと記す。
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… (1)初段 渤海国から天皇の絵姿を求めて使者が来る。藤原時平(しへい)は病中の天皇に代わり自分の姿を描かせようとするが,菅丞相(道真)に諫められる(〈大内〉)。斎世(ときよ)親王と丞相の養女苅屋姫の密会を,舎人(とねり)桜丸が取り持つ。…
…平安前期の廷臣。太政大臣基経長男。母人康親王女。本院大臣ともいう。886年(仁和2)光孝天皇の加冠により宮中で元服,正五位下。翌年従四位下,左近衛中将,蔵人頭。890年(寛平2)従三位,891年父が没するが参議,892年権中納言,897年6月大納言,左大将,氏長者となる。同時に宇多天皇に抜擢された菅原道真も権大納言,右大将となり,同年7月天皇は醍醐天皇に譲位,二人に新帝幼少の間政務を委任した。899年(昌泰2)左大臣,道真は右大臣となるが,宇多院の信任は道真の方が厚かった。…
…12歳で叡山に登り受戒し,玄昭に師事して密教を,大慧に仕えて悉曇(しつたん)を学ぶ。909年(延喜9)菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると,2匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出した話は有名である。940年(天慶3)横川首楞厳院(しゆりようごんいん)で平将門降伏の祈禱を修しその誅滅を予言した。…
…《日本文徳天皇実録》のあとをうけ,清和,陽成,光孝3天皇の代,858年(天安2)から887年(仁和3)まで30年間のことを記す。宇多天皇の命により編纂され,醍醐天皇の901年(延喜1),藤原時平らの手で完成された。六国史中もっとも詳細でかつ史書としての体裁が整備されているが,現存する写本には脱文や後人伝写のさいの抄略が多い。…
… 次に登場するのは《大鏡》巻二の左大臣時平の伝である。藤原時平は菅原道真を讒訴(ざんそ)したとして後世悪名が高く,時平が短命であり,その子孫らもすぐに絶えたのは道真の怨霊によるものとされた。〈あさましき悪事を申しをこなひたまへりし罪により,このおとゞの御末はおはせぬなり。…
※「藤原時平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
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