藤原時平(読み)ふじわらのときひら

精選版 日本国語大辞典 「藤原時平」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ときひら【藤原時平】

平安初期の公卿。左大臣、正二位。通称、本院大臣・中御門左大臣。父は基経、母は人康(さねやす)親王の娘。菅原道真大宰権帥に左遷して藤原氏の地位を確立し、国司交替の厳守、一二年一班の班田収授の法励行、最初の荘園整理令を発し、権門の山川藪沢独占の禁止など律令制の維持につとめたが、三九歳で死亡。後世、道真の祟りと信ぜられた。著に「時平草子」「外記番記」、国史の編纂として「日本三代実録」「延喜式」の撰修に参画。貞観一三~延喜九年(八七一‐九〇九

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デジタル大辞泉 「藤原時平」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ときひら〔ふぢはら‐〕【藤原時平】

[871~909]平安前期の公卿。基経の子。菅原道真大宰権帥だざいのごんのそちに左遷して藤原氏の地位を確保。最初の荘園整理令を発し、班田収授の法を施行して、律令制の維持に努力。「三代実録」「延喜式」の編集に参画。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原時平」の意味・わかりやすい解説

藤原時平 (ふじわらのときひら)
生没年:871-909(貞観13-延喜9)

平安前期の廷臣。太政大臣基経長男。母人康親王女。本院大臣ともいう。886年(仁和2)光孝天皇加冠により宮中で元服,正五位下。翌年従四位下,左近衛中将,蔵人頭。890年(寛平2)従三位,891年父が没するが参議,892年権中納言,897年6月大納言,左大将,氏長者となる。同時に宇多天皇に抜擢された菅原道真も権大納言,右大将となり,同年7月天皇は醍醐天皇に譲位,二人に新帝幼少の間政務を委任した。899年(昌泰2)左大臣,道真は右大臣となるが,宇多院の信任は道真の方が厚かった。901年(延喜1)道真は天皇の廃立を企てた罪で配流されるが,時平を中心とする藤原氏や源氏策謀と考えられる。そのため時平は後世悪名が高いが,政治家としては優れ,醍醐天皇をたすけて荘園整理令などの延喜の諸改革を推進し,《延喜格式》《日本三代実録》の撰修にも関与した。ただし男顕忠らは納言に昇ったが,政権の主流は弟忠平の流が継いだ。
執筆者:

浄瑠璃,歌舞伎の《天神記》の世界に,時平(しへい)は〈公家悪(くげあく)〉の役柄として登場する。もっとも著名な戯曲に《菅原伝授手習鑑》があげられるが,御霊として神格化された菅原道真に対置して,時平も霊的な性格が付与される演出車引の段)となっている。時平には笑い癖があったと伝えられており(《大鏡》),これをもとに《天満宮菜種御供(なたねのごくう)》が並木五瓶の手で書かれ,演者初世嵐雛助の好演によって,《時平の七笑》として名高い。この作中でも時平は陰険な策謀家として描かれている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「藤原時平」の解説

藤原時平

没年:延喜9.4.4(909.4.26)
生年:貞観13(871)
平安前期の公卿。基経と人康親王(仁明皇子)の娘の長男。本院大臣とも。父の威光で光孝天皇の殊遇を受け,仁和2(886)年の元服に際しては,天皇自ら加冠役を務めている。寛平2(890)年11月,20歳で参議となる。しかし翌年1月基経が没すると,宇多天皇は菅原道真を抜擢,時平の立場は不安定なものとなった。道真の長男高視に贈物をし,道真の参議就任に玉帯をプレゼントするなどの追従行為が目につくのは,この時期における立場の弱さを暗示する。叔父国経の妻に横恋慕し,これを奪うという事件を起こした(谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』はこれを素材とする)のもこの前後のことで,多感で行動的な一面がうかがわれる。その後しだいに政治的な力量をつけ,宇多天皇が譲位に際して醍醐天皇に与えた『寛平御遺誡』にも「政治に熟し,又第一の臣たり」とある。昌泰2(899)年左大臣となり,延喜2(902)年には荘園整理令をはじめ律令制の再編強化のために諸法令を出すなど,いわゆる「延喜の治」を推進した。醍醐天皇と謀り,わざと華美な服装をして天皇からとがめられ,人々の奢侈を戒めたという逸話(『今昔物語』)にも,政治家の一面がみられる。しかし延喜1(901)年,道真を大宰権帥に左遷したことが,のちのち悪評を買い,『愚管抄』でさえ,「時平コソカク心モアシケレ」と酷評している。39歳の若さで没したのも道真の怨霊のせいといわれ,その子孫も受領層に転落,消滅した。正一位太政大臣を贈られる。いま宇治陵(宇治市木幡)の中のひとつに時平塚と呼ばれるものがあり,時平の墓との伝承を持つ。

(瀧浪貞子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原時平」の意味・わかりやすい解説

藤原時平
ふじわらのときひら
(871―909)

平安前期の律令(りつりょう)官人。太政(だいじょう)大臣基経(もとつね)の長子。母は四品弾正尹(だんじょうのかみ)人康(ひとやす)親王の女(むすめ)。名は「しへい」とも読む。886年(仁和2)光孝(こうこう)天皇に加冠されて正五位下に叙して以来、父祖の勢威を背景に要職を歴任、899年(昌泰2)左大臣に進む。しかし、同時に右大臣に任じられた菅原道真(すがわらのみちざね)が、藤原氏の専権を抑えるために宇多(うだ)天皇以来重用されていたので、家格を超えた道真の立身を非とし菅原氏の優勢を嫌う勢力と謀ってこれを排斥、901年(延喜1)道真を大宰権帥(だざいごんのそち)に貶(おと)して藤原氏の地位を確保した。時平は律令制の維持に努める諸策を進め、また『日本三代実録』『延喜式(えんぎしき)』の撰修(せんしゅう)に関与したが、延喜9年4月4日、39歳で死去。厳格な政策が恨まれ、その早逝は道真の祟(たた)りといわれた。著書に『時平草子』『外記蕃記(げきばんき)』などがある。

[谷口 昭]

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百科事典マイペディア 「藤原時平」の意味・わかりやすい解説

藤原時平【ふじわらのときひら】

平安前期の高官。基経(もとつね)の長子。本院大臣(ほんいんのだいじん)と通称。899年左大臣となり,宇多院の信任厚い右大臣菅原道真(みちざね)を失脚させて藤原氏の政権を確立。延喜(えんぎ)の荘園整理令などにより律令制の維持に努力し,《日本三代実録》《延喜格式》の撰修を推進した。
→関連項目鳥羽殿

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原時平」の意味・わかりやすい解説

藤原時平
ふじわらのときひら

[生]貞観13(871).京都
[没]延喜9(909).4.4. 京都
平安時代の廷臣。基経の長子。光孝天皇の擁立に功のあった父のおかげで,仁寿殿で天皇から加冠された。寛平2 (890) 年従三位,昌泰2 (899) 年左大臣。藤原氏の専権抑制のため登用された右大臣菅原道真を大宰権帥に左遷し,藤原氏の地位を不動にした。『日本三代実録』『延喜式』の撰修に参与,また律令制の維持に努め,封戸 2000戸を給された。彼が病死すると,世人はこれを道真のたたりとし,「右 (道真) 流,左 (時平) 死」の語が流布した。没後,正一位,太政大臣を追贈。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原時平」の解説

藤原時平
ふじわらのときひら

871~909.4.4

平安前期の貴族。本院大臣と称する。父は基経。弟に忠平,妹に温子・穏子,子に敦忠らがいる。886年(仁和2)元服の際,光孝天皇が加冠し正五位下の位記も天皇みずから筆をとった。蔵人頭(くろうどのとう)をへて890年(寛平2)従三位,翌年参議。ついで中納言・大納言に昇り,廟堂の首班となる。宇多天皇の譲位後,蔵人所別当・正三位。宇多は醍醐天皇の長じるまで時平と寵臣菅原道真(みちざね)に政務をまかせた。899年(昌泰2)左大臣。901年(延喜元)には従二位となり,右大臣道真を左遷。翌年封2000戸を賜る。907年正二位。贈正一位太政大臣。「大鏡」は道真左遷のゆえに子孫続かずと記す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原時平」の解説

藤原時平 ふじわらの-ときひら

871-909 平安時代前期-中期の公卿(くぎょう)。
貞観(じょうがん)13年生まれ。藤原基経の長男。母は人康(さねやす)親王の王女。寛平(かんぴょう)3年(891)参議。昌泰(しょうたい)2年左大臣となり,4年右大臣菅原道真を左遷して政権の座を確保。荘園整理令の公布など醍醐(だいご)朝の「延喜(えんぎ)の治」をすすめる。延喜9年4月4日死去。39歳。贈正一位太政大臣。その死は道真の祟(たた)りといわれた。通称は本院大臣。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原時平」の解説

藤原時平
ふじわらのときひら

871〜909
平安前期の公卿
通称本院大臣・中御門左大臣。関白基経の長男。901年左大臣のとき右大臣菅原道真 (すがわらのみちざね) を讒言 (ざんげん) により大宰府に左遷して,朝廷の実権を握った。902年最初の荘園整理令(延喜の荘園整理令)を出すなど律令制の維持に努力。また『日本三代実録』『延喜格式』を撰修した。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原時平の言及

【菅原伝授手習鑑】より

… (1)初段 渤海国から天皇の絵姿を求めて使者が来る。藤原時平(しへい)は病中の天皇に代わり自分の姿を描かせようとするが,菅丞相(道真)に諫められる(〈大内〉)。斎世(ときよ)親王と丞相の養女苅屋姫の密会を,舎人(とねり)桜丸が取り持つ。…

【藤原時平】より

…平安前期の廷臣。太政大臣基経長男。母人康親王女。本院大臣ともいう。886年(仁和2)光孝天皇の加冠により宮中で元服,正五位下。翌年従四位下,左近衛中将,蔵人頭。890年(寛平2)従三位,891年父が没するが参議,892年権中納言,897年6月大納言,左大将,氏長者となる。同時に宇多天皇に抜擢された菅原道真も権大納言,右大将となり,同年7月天皇は醍醐天皇に譲位,二人に新帝幼少の間政務を委任した。899年(昌泰2)左大臣,道真は右大臣となるが,宇多院の信任は道真の方が厚かった。…

【浄蔵】より

…12歳で叡山に登り受戒し,玄昭に師事して密教を,大慧に仕えて悉曇(しつたん)を学ぶ。909年(延喜9)菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると,2匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出した話は有名である。940年(天慶3)横川首楞厳院(しゆりようごんいん)で平将門降伏の祈禱を修しその誅滅を予言した。…

【日本三代実録】より

…《日本文徳天皇実録》のあとをうけ,清和,陽成,光孝3天皇の代,858年(天安2)から887年(仁和3)まで30年間のことを記す。宇多天皇の命により編纂され,醍醐天皇の901年(延喜1),藤原時平らの手で完成された。六国史中もっとも詳細でかつ史書としての体裁が整備されているが,現存する写本には脱文や後人伝写のさいの抄略が多い。…

【大和魂】より

… 次に登場するのは《大鏡》巻二の左大臣時平の伝である。藤原時平は菅原道真を讒訴(ざんそ)したとして後世悪名が高く,時平が短命であり,その子孫らもすぐに絶えたのは道真の怨霊によるものとされた。〈あさましき悪事を申しをこなひたまへりし罪により,このおとゞの御末はおはせぬなり。…

※「藤原時平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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