藤原薬子(読み)フジワラノクスコ

デジタル大辞泉 「藤原薬子」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐くすこ〔ふぢはら‐〕【藤原薬子】

[?~810]平安初期の女官。種継の娘。娘が平城天皇の妃だったことから天皇寵愛を受けたが、天皇譲位後、兄仲成らと嵯峨天皇を廃して平城上皇復位を企て、失敗して自殺。→薬子の変

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精選版 日本国語大辞典 「藤原薬子」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐くすこ【藤原薬子】

  1. 平安初期の女官。種継の娘。中納言縄主(ただぬし)の妻。娘が平城天皇の妃だったことから、天皇の寵を受け、兄仲成とともに権勢をふるった。天皇が病弱のため嵯峨天皇に譲位すると、兄仲成とともに平城上皇の皇位回復を企て、失敗して服毒自殺した。大同五年(八一〇)没。→薬子の変

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朝日日本歴史人物事典 「藤原薬子」の解説

藤原薬子

没年:弘仁1.9.12(810.10.13)
生年:生年不詳
平安前期,平城天皇の尚侍。藤原種継の娘,藤原縄主の妻。兄に仲成がいる。父種継は桓武天皇の寵臣として長岡遷都を進めたが,延暦4(785)年反対派に暗殺された。薬子は縄主との間に3男2女を生むが,長女皇太子時代の平城の妃になると,皇太子側近の職である東宮宣旨となり,平城の寵愛を受けた。その後,平城への影響力を懸念した桓武により一時退けられる。しかし桓武の死後,平城が即位すると再び登用され,典侍,次いで尚侍に任ぜられ,従三位に上った。尚侍は常に天皇に近侍し天皇と官人を媒介する重要な職であるが,一方で天皇の妻妾化する傾向も生まれつつあった。平城朝は律令制改変,特に官僚機構の大幅な再編が行われた時期である。こうした政策に薬子がどのようにかかわったかは不明であるが,天皇の信頼は絶大であったらしく,兄仲成も権力を拡大していった。弘仁1(810)年平城は病により退位,弟の嵯峨が即位した。しかし平城の病が治ると両者の間に権力争いが生じ,ついに朝廷を二分する。平城は平城旧京に拠って挙兵しようとし失敗,仲成は射殺され薬子も自殺した(薬子の変)。現存史料はすべて嵯峨天皇側のものであるため実態は不明だが,乱の原因が両天皇の権力対立によるのは確かである。にもかかわらず嵯峨はすべての責任を薬子兄妹に負わせることで事態の収拾を図り,薬子は後世まで悪女とされてしまった。なお,この乱のなかで嵯峨が蔵人頭を置いて機密を扱わせたことによって,尚侍の政治的な役割は大きく低下した。

(西野悠紀子)

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原薬子」の意味・わかりやすい解説

藤原薬子 (ふじわらのくすこ)
生没年:?-810(弘仁1)

平安初期の女官。藤原種継の娘。はじめ藤原縄主(ただぬし)と結婚し3男2女を産んだが,娘が皇太子安殿親王(平城天皇)のもとに入内したのを機に東宮坊宣旨として仕えたが,皇太子との醜聞により桓武天皇に追放された。806年(大同1)平城天皇が即位すると尚侍(ないしのかみ)となり,809年には正三位となった。その前年,天皇は病気を理由に皇位を弟神野親王(嵯峨天皇)に譲り,上皇となった。810年健康をとりもどし重祚を望んだ上皇に,薬子は兄仲成とともに働きかけて平城還都をはかり,官人も二分し,〈二所の朝廷〉を生みだしたため,嵯峨天皇は薬子を解官し,追放した。平城上皇らは東国にむかおうとしたが兄は射殺され,上皇も剃髪するに及んで薬子も毒をあおいで自殺した。
薬子の変
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原薬子」の意味・わかりやすい解説

藤原薬子
ふじわらのくすこ

[生]?
[没]大同5(810).9.12.
平安時代の女官。種継の娘で仲成の妹。藤原縄主に嫁して3男2女を産んだ。長女が平城天皇の東宮時代,その後宮に選ばれたのがきっかけで薬子は平城天皇と関係を結び,寵愛を得,尚侍 (ないしのかみ) となった。この薬子を介して,兄仲成は天皇への接近をはかり,参議となった。大同4 (809) 年病により皇太弟 (嵯峨天皇) に譲位した平城上皇は,平安京を離れて平城宮に移った。これにより権勢の失墜を恐れた薬子らは,上皇の重祚を策し平城京に移り天皇と対立した。翌5年9月6日上皇は平城遷都を宣言したが,嵯峨天皇の遷都拒否の方針は定まっており,10日には宮中の警備を厳重にし,伊勢,近江,美濃3国を固めさせ,参議仲成を捕えて殺し,尚侍薬子の位官を奪った。上皇は東国におもむき挙兵しようと薬子とともに平城宮を進発したが,天皇側の軍にさえぎられ,平城宮に引返し,上皇は出家し,薬子は自殺した。 (→薬子の変 )  

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百科事典マイペディア 「藤原薬子」の意味・わかりやすい解説

藤原薬子【ふじわらのくすこ】

平安初期の女官(にょかん)。平城(へいぜい)上皇の寵姫(ちょうき)。種継(たねつぐ)の娘。上皇の妃の母であったが上皇の寵愛を受けた。810年兄の仲成(なかなり)とともに上皇の重祚(ちようそ)をはかったが,嵯峨天皇の派遣した軍に鎮圧されて自殺した。→薬子(くすこ)の変
→関連項目藤原種継平城天皇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原薬子」の意味・わかりやすい解説

藤原薬子
ふじわらのくすこ
(?―810)

平安初期の女官。種継(たねつぐ)の女(むすめ)。平城(へいぜい)天皇の寵(ちょう)を得たが、帝の譲位後、兄仲成(なかなり)と謀りその重祚(ちょうそ)をねらって嵯峨(さが)天皇と対立、敗れて自殺。

[編集部]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原薬子」の解説

藤原薬子
ふじわらのくすこ

?~810.9.12

平安初期の高級女官。種継の女。式家。藤原縄主(ただぬし)に嫁して3男2女をもうける。長女が皇太子安殿(あて)親王(平城天皇)の妃となると,東宮宣旨(とうぐうのせんじ)に登用される。桓武天皇に退けられる時期もあったが,平城天皇の即位後,典侍(ないしのすけ)をへて尚侍(ないしのかみ)に,位階も809年(大同4)には正三位に至る。平城の譲位後も上皇の側近として兄仲成(なかなり)と権勢をふるったため嵯峨天皇方と対立。上皇の平城京遷都命令で全面対決となり,敗れて服毒自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原薬子」の解説

藤原薬子 ふじわらの-くすこ

?-810 平安時代前期の女官。
式家藤原種継(たねつぐ)の娘。藤原縄主(ただぬし)の妻。娘が安殿(あて)親王(のち平城(へいぜい)天皇)の妃となると,みずからも東宮宣旨として出仕。桓武(かんむ)天皇に一時しりぞけられたが,平城天皇即位後は尚侍となり,従三位にすすむ。嵯峨(さが)天皇の即位後,兄仲成とともに平城上皇の重祚(ちょうそ)をはかり,発覚して大同(だいどう)5年9月12日自殺(薬子の変)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原薬子」の解説

藤原薬子
ふじわらのくすこ

?〜810
平安初期の女官。薬子の変の首謀者
式家の種継の娘。長女が皇太子安殿 (あて) 親王(のちの平城天皇)に嫁したのを縁に宮廷に仕えた。809年平城天皇が病気のため弟の嵯峨天皇に譲位すると,自己の勢力失墜を恐れ,810年兄仲成と平城上皇の重祚 (ちようそ) をはかった薬子の変で服毒自殺した。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原薬子の言及

【薬子の変】より

…一方この前後から嵯峨天皇も健康がすぐれず,翌810年(弘仁1)の朝賀は廃止され,7月には川原寺,長岡寺での誦経や伊勢大神宮への奉幣も行われた。このような事情のなかで,平城宮で健康を回復した上皇は,東宮時代にその後宮に入り寵愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄藤原仲成らとともに重祚(ちようそ)(退位した天皇が再び即位すること)を企てた。同年9月に,薬子らは上皇の命により平城京への還都を断行し,諸司が二分し人心騒動するという決定的な対立となった。…

※「藤原薬子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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