佐藤栄作
さとうえいさく
(1901―1975)
政治家。岸信介(のぶすけ)の実弟。明治34年3月27日山口県生まれ。1924年(大正13)東京帝国大学法学部卒業後鉄道省に入り、1946年(昭和21)鉄道総局長官、1947年運輸次官となる。その間吉田茂(よしだしげる)の知遇を受け、1948年退官して自由党に入り、同年10月第二次吉田内閣の官房長官に就任した。1949年山口2区より衆議院議員に初当選、以後連続10回当選。1950年4月自由党幹事長、さらに第三次吉田内閣の郵政相、第四次吉田内閣の建設相を経て1953年2月ふたたび幹事長になるなど吉田派の中心人物の地位にのし上がった。1954年4月造船疑獄に連座し逮捕が必至となったが、犬養健(いぬかいたける)法相の異例の指揮権発動で救われた。その後も蔵相、通産相、自民党幹事長などを歴任、吉田派を継承し党内最大派閥の佐藤派を築いた。1964年の総裁選では池田勇人(いけだはやと)3選に反対して立候補したが敗れた。しかし池田の病気引退により同年11月首相となり、以後7年8か月の長期にわたり政権を維持した。佐藤は「人事の佐藤」「待ちの佐藤」といわれたように、党内操縦術に抜群の手腕を示すとともに、状況に追随し手堅く無難な選択を行う守りの政治を特徴とした。それは、高度成長期には適合的な政治スタイルで、長期政権の秘訣(ひけつ)もここにあったが、1970年代以降の時代の変化には対応しきれないもので、それは1971年のニクソン・ショック(ドル危機、米中接近)に典型的に示された。1972年5月の沖縄返還を花道に7月引退した。1974年アイルランドのマクブライドSeán MacBride(1904―1988)とともにノーベル平和賞受賞。昭和50年6月3日死去。
[伊藤 悟]
『富森叡児著『戦後保守党史』(1977・日本評論社)』▽『岡本文夫著『佐藤政権』(1974・白馬出版)』▽『山田栄三著『正伝佐藤栄作』上下(1988・新潮社)』▽『『佐藤栄作日記』全6巻(1997~1999・朝日新聞社)』
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佐藤栄作 さとう-えいさく
1901-1975 昭和時代後期の政治家。
明治34年3月27日生まれ。佐藤市郎,岸信介の弟。運輸次官をへて,昭和23年第2次吉田内閣の官房長官。翌年,衆議院議員(当選10回)。25年自由党幹事長となるが,造船疑獄事件で辞任。のち蔵相,通産相などを歴任し,39年自民党総裁,首相。7年8ヵ月政権をにない,日韓基本条約を締結し,沖縄返還を実現した。49年ノーベル平和賞。昭和50年6月3日死去。74歳。山口県出身。東京帝大卒。
【格言など】沖縄が祖国に返らなければ,日本の戦後は終らない
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さとう‐えいさく【佐藤栄作】
政治家。山口県出身。東大法学部卒。岸信介の弟。運輸省退官後、無議席で吉田内閣の官房長官となる。以来、党および内閣の
要職を歴任。昭和三九年(
一九六四)から同四七年まで自由民主党総裁、首相。同四九年ノーベル平和賞受賞。明治三四~昭和五〇年(
一九〇一‐七五)
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さとう‐えいさく【佐藤栄作】
[1901~1975]政治家。山口の生まれ。岸信介の実弟。運輸官僚から政界に転じ、昭和39~47年(1964~1972)自由民主党総裁・首相。昭和49年(1974)、ノーベル平和賞受賞。→田中角栄
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さとうえいさく【佐藤栄作】
1901‐75(明治34‐昭和50)
昭和戦後期の政治家。山口県出身。東大法学部卒業。鉄道省に入る。1947年運輸事務次官。吉田茂首相に見込まれ,49年総選挙で池田勇人,前尾繁三郎らとともに官僚出身保守党政治家の道を歩む。官房長官や幹事長,郵政相,建設相などを歴任,54年造船疑獄では逮捕直前に犬養健法相の指揮権発動で救われた。自民党に加わってからは蔵相,通産相などのほか派閥の長として総裁選に立候補,64年11月,吉田派閥の直系として首相に指名される。
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世界大百科事典内の佐藤栄作の言及
【核戦略】より
… 日本政府は戦後一貫して日本が核武装する意思のないことを表明し,アメリカの核兵器持込みも認めない方針をとってきた。この政策を〈非核三原則〉にまとめて提示したのは1967年12月11日,衆院予算委員会における佐藤栄作首相の答弁であった。この非核三原則は71年11月24日,沖縄返還協定の審議とからんで国会決議され,〈国是〉ともいえる位置を占めている。…
【疑獄】より
…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…
【高度経済成長】より
…そのなかで日本経済は,成長率はかつての半分をさえ下まわるとはいえ,国内の混乱を最小限に抑え,世界における地歩を高めることに成功した。【飯田 経夫】
【政治過程】
高度経済成長期は,池田勇人,佐藤栄作両内閣の時代にほぼ見合っており,政府の基本政策としても高度経済成長が採用された時期であった。 第2次大戦によって日本経済は壊滅的打撃をうけたので,戦後の政府の大きな課題は経済の再建復興であった。…
【造船疑獄】より
…また飯野海運,日立造船,新日本海運,中野汽船,東西海運などの8海運会社があいついで手入れを受け,4月には日本船主協会,日本造船工業会の各幹部,自由党本部会計責任者が逮捕された。さらに最高検察庁は4月20日,佐藤栄作(自由党幹事長)の収賄(船主協会,造船工業会から各1000万円,未届など)による逮捕許諾請求を決定したが,翌21日,犬養健法相は吉田茂首相の意向を受けて検察庁法14条により指揮権を発動し(指揮権発動),佐藤の逮捕延期と任意捜査を指示した(犬養は翌日辞任)。このため捜査は〈政治のカベ〉に阻まれて事実上の中断を余儀なくされ,7月30日に終了したが,事件とその真相を隠ぺいした指揮権発動は吉田内閣の屋台骨を揺るがし,12月7日の総辞職へと追い込まれていった。…
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