平曲,能の曲名。
(1)平曲。平物(ひらもの)。拾イ物。敗戦で四国,九州の海域をさまよう身となった平家一門にとって,深まりいく秋のあわれはひとしおだった(〈三重(さんじゆう)・初重〉)。源氏方は源範頼を総大将として名だたる武将の数を連ね,3万余騎で播磨の室(むろ)に着いた。屋島を根拠地とした平家は,源氏を迎え撃つため,平資盛(すけもり)を総大将に500余隻の船団を備前の児島に向かわせたので,源氏も同国の藤戸に布陣した(〈拾イ〉)。しかし海を隔てた対陣なので,船がない源氏は攻めかねていた。佐々木盛綱は,海を渡ろうと浦の男を手なずけ,馬で渡れる瀬のような所を教わり,ただ2人で出かけて水深を調べたが,他人に洩らしはしないかとその男を刺し殺してしまった。戦になると,盛綱は家来たちと7騎で海を渡りはじめ,範頼の制止もかまわず対岸に上がったので,全軍が後に続き,敗れた平家方は屋島に退却し,盛綱はその功で児島を賜った(〈拾イ〉)。拾イの部分が全曲の大半を占める。後出の能と違って瀬を教わるところは重点にしていない。
(2)能。四番目物。作者不明。前ジテは漁夫の母。後ジテは漁夫の怨霊(おんりよう)。佐々木盛綱(ワキ)は,藤戸の先陣の功によって賜った備前の児島に,初めて領主として乗り込み,訴えごとがあれば申し出よと領民に触れを出した。すると年たけた女(前ジテ)が来て,罪もないわが子が海に沈められたことの恨みを述べる。盛綱は隠しきれず,浅瀬を教えてくれた漁夫を殺して海に沈めたいきさつを物語る(〈語り〉)。女は,二十(はたち)余りまで育てた愛児を失った悲しみを訴え,わが子を返せと盛綱に迫る(〈クセ〉)。盛綱が弔いをすると,漁夫の怨霊(後ジテ)が瘦せ衰えた姿で現れる。怨霊は,殺されたときの苦痛を述べて盛綱に襲いかかろうとするが,結局は弔いの功徳で成仏する(〈中ノリ地〉)。戦功の犠牲となった庶民の激しい怒りを,本人と母親の2人を舞台に登場させることで,強く深く掘り下げて描いている。
執筆者:横道 万里雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
能の曲目。四番目物。五流現行曲。作者不明だが、能の名作の一つ。佐々木盛綱(もりつな)(ワキ)は、藤戸の戦いの恩賞として備前の児島(こじま)の領主となり、意気揚々と赴任し、訴訟ある者は申し出よと布告する。馬で島を攻めることの可能な藤戸の浅瀬を教えたばかりに、機密漏洩(ろうえい)を恐れた盛綱に刺殺された漁師の母(前シテ)は、その理不尽を訴え、わが子と同じように殺せと領主に迫る。後悔した盛綱は、漁師の追善供養を営む。漁師の亡霊(後シテ)は、死骸(しがい)を沈められた海から浮かび上がって、戦功の原因は自分なのだから、どんな恩賞もあってよいはずなのに、殺すとは何事かと恨みを訴えるが、弔いに成仏して終わる。武将の行為を当然の配慮として肯定する原典の『平家物語』に対し、非人道の行為を激しく告発しているところに、能の主張がある。
[増田正造]
岡山県南部、倉敷市の一地区。旧藤戸町。児島(こじま)半島の基部にあるが、かつて半島が本土と陸繋(りくけい)化する以前は児島の北岸にあり、本土とは藤戸の渡しで結ばれていた。1184年(元暦1)の源平藤戸合戦の古戦場であり、佐々木盛綱(もりつな)が戦死者を供養した藤戸寺がある。また、この合戦を題材とした世阿弥(ぜあみ)作の謡曲『藤戸』がある。近世は藤戸寺の門前町、金毘羅(こんぴら)往来の要地であり、また倉敷川の川湊(かわみなと)であった。
[由比浜省吾]
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