改訂新版 世界大百科事典 「藤田組」の意味・わかりやすい解説
藤田組 (ふじたぐみ)
1881年1月に藤田伝三郎を社主として,その実兄藤田鹿太郎,久原庄三郎の3名が出資して設立された企業。伝三郎は長州出身,酒造業者の四男として生まれた。1869年(明治2)に大阪で兵部省用達業,土木建築業に着手し,77年より上記3兄弟によって藤田伝三郎商店を組織し,市ノ川鉱山への投資なども行っていた。この事業は井上馨の先収会社大阪支店の事業を継承したもので,西南戦争では軍靴,糧米などの軍用物資調達で巨利を収めた。政商的色彩が強く,79年には〈藤田組贋札事件〉で取調べを受け,その活動は民権派の攻撃の的となった。藤田組設立後は84年に小坂鉱山の払下げを受け,また87年に大倉喜八郎の参加を得て内外用達会社,有限会社日本土木会社(最初の法人組織による建設会社)を設立して用達・土木部門を分離した。93年にこの両社を大倉に譲渡して鉱山に主力を集中したが,この間,放漫な経営方針と小坂鉱山の減産によってたびたび経営危機に陥った。しかし黒鉱製錬法による銅山としての再生と毛利家資金援助で危機を克服した藤田組は産銅家として急成長し,他方,岡山県児島湾開拓にも成功して財閥形成の地歩を築いた。1905年末,藤田組は鹿太郎長男小太郎と庄三郎長男房之助の持分を回収して伝三郎一家の経営となり,第1次大戦ブームにかけて大阪亜鉛,藤田銀行を設立,鉱山部門を藤田鉱業として分離するなどコンツェルン化をはかった。しかし,戦後不況下で経営難となり,銀行閉鎖を余儀なくされ,37年に藤田鉱業を合併して株式会社藤田組となった。その後,銀行整理に伴う日本銀行特別融通の処理と戦時の増産要請とから,43年に藤田家は小坂,花岡,柵原の主要鉱山の藤田組株式を国策会社帝国鉱業開発に譲渡して経営を退き,藤田組は帝国鉱業開発の経営下で敗戦を迎え,45年12月に商号を同和鉱業株式会社に改めている。また,主要3鉱山以外の鉱山を経営するために,45年5月には藤田鉱業株式会社を設立した。
藤田鉱業は48年8月,鉱山部門を分離して藤田鉱山株式会社を設立し,残る部門を不動産・観光を主体とする藤田興業株式会社とした。さらに55年11月藤田興業の観光部門を独立させて藤田観光株式会社を設立し,57年9月,残る藤田興業は同和鉱業に合併された。藤田観光は小涌園,椿山荘などで知られ,筆頭株主は同和鉱業である。なお2006年10月に同和鉱業はDOWAホールディングス株式会社と社名変更し,持株会社に移行した。
執筆者:武田 晴人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報