実業家。大倉財閥の創設者。越後国新発田(しばた)の商家に生まれ,18歳の時,商売で身を立てようと江戸に出て鰹節店店員となる。1867年(慶応3)に神田和泉橋通に銃砲店を開業し,幕末・維新の動乱を利用して販路を拡大した。明治維新後は欧米の経済社会を視察したうえ,73年に大倉組商会を設立して外国貿易および用達事業に乗り出し,政治家や軍部と結びつき,台湾出兵,西南戦争,日清戦争,日露戦争の軍需物資調達や輸送で巨利を得た。この間,建設事業にも着手するとともに,93年大倉組商会は合名会社大倉組に改組され,大正期に入ると,大倉商事,大倉鉱業,大倉土木の直系3社を中核とする大倉財閥の体制を確立していった。当時の企業家のなかでは中国大陸への事業進出にきわめて積極的であり,1911年満州(中国東北部)に製鉄事業の本渓湖煤鉄公司(コンス)を設立したのをはじめ,中国や朝鮮に数多くの事業をおこした。中国軍閥との関係も深く,政治的借款もしばしば供与している。また大倉は渋沢栄一と協力して東京商法会議所(現,東京商工会議所)設立に尽力するなど財界活動にも力を注ぎ,東京電灯,帝国ホテル,大日本麦酒,日本皮革,日清製油など多数の会社の設立に関与し,出資した。1900年に大倉商業学校(1920年大倉高商。現,東京経済大学),1917年には東洋古美術を展示した大倉集古館も設立している。
執筆者:中村 青志
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政商的実業家。大倉財閥の創設者。越後国(えちごのくに)(新潟県)新発田(しばた)の名主の家に生まれる。18歳で江戸に出て、かつお節店の店員となる。1865年(慶応1)銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大した。維新後は欧米視察のうえ、1873年(明治6)大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争(にっしんせんそう)、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得た。この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していった。とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かった。また渋沢栄一と協力して東京商法会議所設立に尽力するなど財界活動にも力を入れ、東京電燈(でんとう)はじめ多数の会社の設立に関与した。大倉高等商業学校(現東京経済大学)や大倉集古館も設立している。
[中村青志]
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…大手5社の一つ。幕末に越後から上京し1867年(慶応3)に大倉銃砲店を開いた大倉喜八郎が,73年(明治6)に外国貿易を営む大倉組商会(組合組織)を設立,貿易業務の一方で政府の命により建設工事その他の請負を行ったのが同社の前身。この時期,新橋停車場の一部や鹿鳴館などの工事を手がけた。…
※「大倉喜八郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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