朝日日本歴史人物事典 「西園寺公宗」の解説
西園寺公宗
生年:延慶2(1309)
鎌倉時代後期から建武新政期の公家。父は西園寺実衡,母は権大納言藤原為世の娘。正中1(1324)年10月参議,翌年12月権中納言に昇進。嘉暦1(1326)年11月,父実衡が没すると,西園寺家の家督と関東申次の役職を継いだ。公宗ときに18歳。朝廷では後醍醐天皇が討幕を企図したので,朝廷と鎌倉幕府の間にさまざまの波風が立ち,両者の間を調停する関東申次の職務遂行は困難を極めたものと考えられる。公宗はふたつに分かれた天皇家のうち後伏見上皇を中心とする持明院統に接近していたため,大覚寺統の後醍醐天皇とは折り合いが悪かったらしい。元徳3/元弘1(1331)年8月,後醍醐天皇が南山城の笠置山に出奔すると翌月京都では光厳天皇が践祚し公宗は光厳天皇のもとで重臣として仕えた。同10月には捕らえられた後醍醐天皇の検分に立ち会い,拘禁中の同天皇と接触している。正慶2/元弘3年5月鎌倉幕府が滅亡し光厳天皇が廃位され,後醍醐天皇による建武の新政が始まると,公宗は一旦権大納言を辞したが,復任。しかし,建武の新政下で公宗は逼塞を余儀なくされた。建武2(1335)年6月,後伏見院擁立をたくらんだとして日野資名父子らと共に召し捕られ,同8月誅殺された。この事件には家督をねらう弟公重がからんでいた。なお『竹むきが記』の記主日野名子(資名の娘)は公宗の妻で,南北朝時代の武家執奏西園寺実俊は両人の間に生まれた子。<参考文献>森茂暁『太平記の群像』
(森茂暁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報