西園寺公宗(読み)さいおんじきんむね

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西園寺公宗」の意味・わかりやすい解説

西園寺公宗
さいおんじきんむね
(1310―1335)

鎌倉後期の政治家。父は実衡(さねひら)、母は藤原為世(ためよ)の女(むすめ)(昭訓門院春日局(しょうくんもんいんかすがのつぼね))。花園(はなぞの)・後醍醐(ごだいご)朝に権大納言(ごんのだいなごん)、兵部卿(ひょうぶのきょう)に至る。持明院(じみょういん)・大覚寺(だいかくじ)両統に仕えた。1332年(元弘2)後醍醐天皇隠岐(おき)遷幸のとき、皇子たちは公宗の邸に預けられ、翌年、六波羅探題(ろくはらたんだい)が上皇を擁して近江(おうみ)に没落したときには公宗は京にとどまった。建武(けんむ)中興政治では後醍醐天皇の中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)を勤めた。一方、北条高時(たかとき)の弟泰家(やすいえ)を邸にかくまって北条氏再興に備え、1335年(建武2)後醍醐天皇暗殺を企て、顕(あらわ)れて同年8月2日誅(ちゅう)せられた。公宗は文章をよくし、また、その和歌勅撰(ちょくせん)集にとられている。

[多賀宗隼]

『佐藤進一著『南北朝の動乱』(『日本の歴史9』1965・中央公論社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「西園寺公宗」の意味・わかりやすい解説

西園寺公宗 (さいおんじきんむね)
生没年:1310-35(延慶3-建武2)

鎌倉末期の公卿。正二位,権大納言西園寺実兼曾孫西園寺家は公経以来,鎌倉幕府の強力な後援を得て隆盛を誇ってきたが,幕府倒壊によって家運もようやく傾いた。公宗は家運の挽回を図って,北条時行らと建武政権への反乱を企てたが,事前にもれて誅された。公宗はまた歌人としても知られ,その作品は《続後拾遺和歌集》などにとられている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西園寺公宗」の解説

西園寺公宗 さいおんじ-きんむね

1309-1335 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
延慶(えんきょう)2年生まれ。西園寺実衡(さねひら)の長男。母は二条為世(ためよ)の娘,昭訓門院春日。嘉暦(かりゃく)元年家督をついで関東申次(もうしつぎ)となり,元徳2年権(ごんの)大納言。正二位。北条家とむすんで後醍醐(ごだいご)天皇の暗殺をはかるが失敗し,義父の日野資名(すけな)らとともに捕らえられ,建武(けんむ)2年8月2日処刑された。27歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西園寺公宗」の意味・わかりやすい解説

西園寺公宗
さいおんじきんむね

[生]延慶3(1310).京都
[没]建武2(1335).8.2. 京都
鎌倉時代末期の廷臣。実衡の子。建武2 (1235) 年,建武政権の動揺に乗じ,北条時行らと政府転覆をはかったが捕えられ,殺された。 (→中先代の乱 )

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

一度利用した製品を捨てずにそのまま再使用すること。ごみの削減に重要だとされる「3R」の一つで、衣類・服飾品や家電などさまざまな品目が取り扱われている。リユース商品の専門店やイベント、フリーマーケット...

リユースの用語解説を読む