西村天囚(読み)ニシムラテンシュウ

デジタル大辞泉 「西村天囚」の意味・読み・例文・類語

にしむら‐てんしゅう〔‐テンシウ〕【西村天囚】

[1865~1924]新聞記者小説家漢学者。大隅種子島の人。名は時彦大阪朝日新聞社社員、のち宮内省御用掛などを務めた。小説「屑屋の籠」、著「日本宋学史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「西村天囚」の意味・読み・例文・類語

にしむら‐てんしゅう【西村天囚】

  1. 新聞記者、小説家、漢学者。本名時彦。大隅国(鹿児島県)種ケ島生まれ。東京大学古典講習科に学ぶ。大阪朝日新聞社に入社。「単騎遠征録」「日清従軍記」を書く。同新聞の論壇主宰。また、浪花文学会を主宰、大阪での文学運動の中心人物。著作「日本宋学史」、小説「屑屋の籠」など。慶応元~大正一三年(一八六五‐一九二四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西村天囚」の意味・わかりやすい解説

西村天囚
にしむらてんしゅう
(1865―1924)

明治・大正期の新聞記者、漢学者。本名時彦(ときつね)。別号硯園(せきえん)。慶応(けいおう)元年7月23日薩摩(さつま)国(鹿児島県)種子島(たねがしま)に生まれる。上京し、重野安繹(やすつぐ)につき宋(そう)学を学ぶ。東京大学古典講習科に入学したが、学資が続かず退学。小説『屑屋(くずや)の籠(かご)』(1887~1888)を書き、評判を得た。『大阪公論』を経て、1890年(明治23)大阪朝日新聞社に入社。日清(にっしん)戦争の従軍記事によって文名を高めた。大正期の大阪朝日新聞社内では、鳥居素川(そせん)らの進歩派グループと対立する保守派グループの中心的存在だったが、指導権争いに敗れ、第一線からは遠ざけられた。この間、漢学の研究に力を入れ、京都帝国大学講師を務めたほか、大阪の懐徳堂(江戸中期の学校)復興にも尽力した。1918年(大正7)白虹(はっこう)筆禍事件によって素川らが退社するや、編集顧問として復帰。それまでの編集路線を自己批判し、「不偏不党」路線をとることを宣言する社説を執筆した。翌1919年退社。以後は宮内省御用掛などを務めた。大正13年7月29日死去。

[有山輝雄]

『小沼量平編『硯園先生追悼録』(1925・懐徳堂堂友会)』

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20世紀日本人名事典 「西村天囚」の解説

西村 天囚
ニシムラ テンシュウ

明治・大正期のジャーナリスト,小説家,漢学者



生年
慶応1年7月23日(1865年)

没年
大正13(1924)年7月29日

出生地
大隅国種子島西之表(鹿児島県西之表市)

本名
西村 時彦(ニシムラ トキツネ)

別名
別号=碩園,紫駿道人

学歴〔年〕
帝国大学文科大学(現・東大文学部)古典講習科〔明治19年〕中退

学位〔年〕
文学博士〔大正9年〕

経歴
明治20年社会時事諷刺小説「屑屋の籠」を出版して注目され、「さざなみ新聞」「大阪公論」などを経て、23年大阪朝日新聞記者となる。その間「なにはがた」「浪花文学」を創刊。日清戦争後は文学から離れ、新聞記者に専念する。29年東京朝日新聞に移るが、35年再び大阪朝日新聞に戻る。大正7年の白虹事件後、編輯顧問となり、「朝日新聞編輯綱領」を起草した。8年朝日新聞を退社。また漢学研究にもつとめ「日本宋学史附宋学考」を明治42年に刊行。京都帝大講師、宮内省御用掛などを歴任した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「西村天囚」の解説

西村天囚

没年:大正13.7.29(1924)
生年:慶応1.7.23(1865.9.12)
明治大正時代のジャーナリスト。本名時彦。晩年は硯園と号した。大隅国種子島西之表(鹿児島県西之表)に生まれる。父は時樹,母は浅子。東京帝大文学部中退後,明治21(1888)年滋賀県大津の『さゝ浪新聞』主筆。22年政論紙『大阪公論』,23年『大阪朝日新聞』記者となる。26年ウラジオストクに特派され,27年ソウルから日清戦争の戦況を報道。29年『東京朝日新聞』に移るが,35年『大阪朝日新聞』に復帰。大正デモクラシーに関しては,社内の保守派の代表格として,鳥居素川,長谷川如是閑らの進歩的自由主義派と対立があった。大正7(1918)年の白虹事件後,編輯顧問となって,不偏不党を明文化した「朝日新聞編輯綱領」や,いわゆる「本領宣明」を起草した。宋学の教養があり,京大講師のほか,大阪の懐徳堂の再建に尽力した。8年朝日新聞社を退社。10年宮内省御用掛となり,12年の「国民精神作興の詔書」などの起草に当たった。<参考文献>朝日新聞百年史編修委員会『朝日新聞社史』(明治編,大正・昭和戦前編),後醍院良正『西村天囚伝』

(井川充雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西村天囚」の意味・わかりやすい解説

西村天囚
にしむらてんしゅう

[生]慶応1(1865).7.23. 薩摩
[没]1924.7.29. 東京
明治・大正期の新聞記者,漢学者。本名は時彦 (ときつね) 。 1880年に上京して東京大学文学部に入学したが,学資が続かず中退。しばらく小説を書いていたが,1889年『大阪朝日新聞』の傍系の高級政治紙『大阪公論』に入社。翌年『大阪朝日新聞』に移った。大正デモクラシー期には鳥居素川長谷川如是閑らに対し,社内保守派のリーダー格で,1918年の白虹 (はっこう) 事件による素川らの大挙退社のあと,上野理一新社長のもとで主筆となり,「不偏不党,公平穏健」の信条を掲げて『朝日新聞』の右転向を推進し,危機を回避した。晩年は宮内省で詔勅の草案をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西村天囚」の解説

西村天囚 にしむら-てんしゅう

1865-1924 明治-大正時代の小説家,ジャーナリスト。
慶応元年7月23日生まれ。小説「屑屋(くずや)の籠(かご)」で名声をえる。明治23年大阪朝日新聞社に入社,日清(にっしん)戦争の従軍記者などをつとめた。大正13年7月29日死去。60歳。大隅(おおすみ)(鹿児島県)出身。東京大学中退。名は時彦(ときつね)。別号に碩園など。著作はほかに「日本宋学史(そうがくし)」。

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百科事典マイペディア 「西村天囚」の意味・わかりやすい解説

西村天囚【にしむらてんしゅう】

新聞記者,小説家,漢学者。本名時彦。別号碩園(せきえん)。種子島生れ。東京帝国大学古典講習科中退。1887年小説《屑屋の籠》を出版して注目される。1889年から《大阪朝日新聞》記者として活躍する一方,浪花文学会を結成,《なにはがた》《浪花文学》の中心メンバーとして大阪文化の高揚に努めた。漢学研究の成果に《日本宋学史 附宋学考》(1909年)がある。京都帝国大学講師・宮内省御用掛もつとめた。

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367日誕生日大事典 「西村天囚」の解説

西村 天囚 (にしむら てんしゅう)

生年月日:1865年7月23日
明治時代;大正時代の小説家;新聞記者;漢学者
1924年没

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