1054年のローマ・カトリック教会との分裂で成立したキリスト東方正教会の最大勢力。ロシアで推定7500万人の信者を持つ。キエフ・ルーシが10世紀末に正教を受け入れたのが起源。ロシア皇帝ピョートル1世が18世紀に総主教制を廃止し教会を国家に取り込んだが、ロシア革命後に総主教制が復活した。ソ連時代には弾圧を受け、存亡の機に陥ったが、スターリンが独ソ戦への協力を求め、抑圧を緩和。ソ連崩壊後、急速に勢力を回復した。(共同)
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東方正教会のなかで最大の教勢を有するロシアの正教会。
ロシアに対するキリスト教の布教は,さまざまな教会によって早くから行われていたが,公式のキリスト教受容は988年または989年,キエフ・ロシアのウラジーミル大公によって実現された。ウラジーミルに洗礼を授けたのはビザンティン帝国の教会であり,以降ロシアはキリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国にそれを仰ぎ,東方正教文化がロシア文化の基盤となった。コンスタンティノープル総主教はキエフに府主教座を置き,代々ギリシア人府主教(例外もある)を任命したが,ロシアの教会は少しずつ民族化していった。典礼はビザンティン式であったが,典礼用語は,初期のギリシア語から,11世紀前半にはブルガリアで使用されていたスラブ語(古代教会スラブ語)が導入され,南スラブ系のこの言語がロシア文章語成立の基盤となった。修道生活の理念と典礼芸術もビザンティン帝国からもたらされ,独自の発展をとげた。キエフ・ロシアの黄金時代は長続きせず,13世紀前半のモンゴル軍の侵入によって南ロシアは荒廃し,ロシアの重心は北方に移った。キエフ府主教座は14世紀前半にモスクワに移された。ただし〈タタールのくびき〉として知られるモンゴル人の支配はキリスト教に対しては寛大で,その間に各地で修道院が開かれた。特に著名なものは,14世紀中葉にセルギー・ラドネシスキーが創設したトロイツェ・セルギエフ修道院である。そのころアトス山から神秘主義思想ヘシュカスモスも伝えられた。
ロシアの教会は,ビザンティン帝国の衰退とともに独立性を強め,カトリック教会との合同を意図したビザンティン教会に反抗し,1448年に事実上の独立を達成した。ビザンティン帝国の滅亡(1453)とともにモスクワ公国は自信を深め,モスクワ〈第三ローマ論〉なる終末論的イデオロギーが現れた。しかし表面上の繁栄のかげで教会内の矛盾も拡大していた。16世紀初頭に修道士ニル・ソルスキーは修道院の大規模な土地所有を攻撃し,教会の社会的責任を主張するヨシフ・ボロツキーと論争を行った。そして後者の立場が勝利をおさめ,教会と国家の関係はますます密接になった。1551年のストグラフ会議でツァーリ,イワン4世は教会の大土地所有に制限を加えようとしたが,ほとんど成功しなかった。59年にモスクワ府主教は総主教に格上げされた。
17世紀前半の混乱の時代を経てロマノフ朝が成立し,教会では総主教ニコンの手で,懸案となっていた典礼の改革が始まった。これは典礼文および典礼方式に関して他の東方正教会とのずれを正すものであったが,多数の聖職者や信徒の反対にあい,反対派は正教会から分離して,ラスコーリニキ(分離派)ないし古儀式派を形成した。教会の活力は弱まり,ニコンも失脚した。18世紀になると皇帝ピョートル1世は精力的にロシアの近代化を推進し,その一環として教会制度の改革をはかった。1700年以後総主教の選出を禁じ,21年には正式に総主教制を廃止し,かわりにシノド(宗務院)を設けた。宗務院は聖職者が運営するたてまえであったが,実際には宗務総監と呼ばれる皇帝の官吏が事実上の議長となり,かくして教会は国家の一機関となった。ロシア文化の発祥の地ともいうべきウクライナは,長いことポーランドの支配下におかれ,正教徒は宗教改革と反(対抗)宗教改革の結果としてカトリック教会の攻勢にさらされ,一部は合同教会を作った(1596)。これに反対した正教徒はキエフ神学校を中心に教会の近代化をはかり,その影響はモスクワに及んだ。
19世紀後半からロシア正教会の内部でも教会改革の必要が叫ばれた。この動きは1905年の革命ではずみがつき,17年に帝政が崩壊すると,教会は約2世紀ぶりに総主教制を復活させた。しかし教会改革にとりくむ間もなく,ソビエト政権の徹底的な政教分離策と反革命分子の弾圧によって,教会は存亡の危機に追いこまれ,しかも教会内部ではさまざまな分派運動がおこった。その後,第2次世界大戦をきっかけに政府と教会の妥協が成った。教会は社会主義体制下にあってそれなりの活動の自由を保障されるかわりに,政府の政策,例えば外交政策などに協力することになった。ソ連時代のロシア正教会は,帝政時代とはくらべものにならないほど勢力が衰えたが,それでも東方正教会のなかで最大の教勢を保っていた。フルシチョフ政権のもとで再び宗教弾圧を受けたが,1980年代後半のペレストロイカの時期に一気に復活し,ゴルバチョフは政教和解を呼びかけ,過去の宗教弾圧を公式に謝罪した。
→東方正教会
執筆者:森安 達也
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キリスト教の一派で、東方正教会の中核をなす教会。ロシアにビザンティンから正教が入った当初のキエフ・ロシア時代、ロシア正教会はコンスタンティノープル総主教の管下にあったが、実際の信仰は修道院で行われ、主の祈りに基づく独自な「卑下(ケノーシスkenosis)の精神」(十字架にかけられ辱められたイエスを偲(しの)ぶ心)が育成された。続くタタール人支配時代も修道信仰は森の中で保存された。16世紀、モスクワ・ロシア時代、ロシア正教会は、ビザンティン教会がイスラムの支配下になったため、かわって正教の中心となり、総主教制が敷かれ、モスクワは第三のローマと号した。だが同教会は信仰の聖地であるよりも、祭祀(さいし)主義的、権威主義的場と化し、民衆の間に迷信が盛んとなり、一方、反権威的な教会分裂(ラスコール)や狂信的セクトが生じた。18世紀ピョートル大帝により官許正教会は弱められ、以後形骸(けいがい)化した。さらにロシア革命後は反宗教のソビエト政権により、十余年にわたって迫害され(1930年がピーク)、その後も、教会は宗教的行動を制限され、布教、宗教教育、慈善事業などは許されず、個人の祈りに限定されて認められていた。だが、革命後70年の1988年、ロシア正教伝来1000年を記念して国をあげて祝祭が行われた。ゴルバチョフ初代大統領が就任した1990年の10月に新宗教法が成立し、信教の自由が大幅に認められるようになった。ロシア初代大統領エリツィンも就任に際し、宗教の重要性について演説した。こうしてクレムリンもペレストロイカ(改革)には国益や階級益を超えた全人類益を目ざすイエス自身の信仰に基づく宗教が必要であるとし、ロシアに正教が復興した。ロシアにおける正教の復興こそ、東西冷戦の終結、旧ソ連の終焉(しゅうえん)、新生ロシアの誕生、ロシアにおける共産主義の消滅など画期的出来事の要因であるといえよう。
[田口貞夫]
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東方正教会の一派。10世紀末ヴラジーミル1世(聖公)のときロシアの国教となり,キプチャク・ハン国の間接支配の時代にかえって栄え,1453年のコンスタンティノープル陥落以後は,モスクワ大公国こそ東方正教の真の相続者と意識され,1589~1700年の総主教時代(11代)には,ニコンのように帝権と権力を分け合う勢いの総主教も現れたが,1652~58年,ピョートル1世の宗務院(シノド)創設により皇帝権力への従属が実現した。民族意識と一体化し,救世救国的な使命感の強い正教の性格は,19世紀になってもロシアの国民思想に影響を与え,専制,民族性,正教は三位一体視された。
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…オスマン帝国の直接の支配を逃れたモルドバとワラキア(両国は現在のルーマニアに当たる)の教会は比較的順調な発展を遂げ,コンスタンティノープル総主教座にも影響力を有した。なおロシア正教会では17世紀中葉,典礼の改革をめぐって深刻な紛争が生じ,改革に反対した一派はラスコーリニキ(分離派)として離脱し,教会全体の活力は弱まった。ピョートル大帝は教会改革の一環として総主教制を廃止し(1721),かわりにシノド(宗務院)を設け,国家による統制を強化した。…
…ただし,他の宗教にも数多くの宗派宗旨があるように,キリスト教にも,カトリックとプロテスタントの二大教会の別があり,それぞれの内部に数多くの教派があって,音楽的伝統も一様ではない。芸術的に見た場合,それらの中でとくに重要なのは,パレストリーナやベートーベンのミサ曲によって代表されるローマ・カトリック教会,バッハのカンタータや受難曲によって代表されるルター派のドイツ福音主義教会,パーセルのアンセムやヘンデルのオラトリオによって代表される英国国教会,ボルトニャンスキーの教会コンチェルトによって代表されるロシア正教会などである。 イエス・キリストの生涯を書き記した新約聖書の福音書には,ただ1ヵ所だけ音楽に言及した個所がある。…
…シベリア・極東に住む少数民族語は,革命後,1930年代初めにはラテン文字による北方統一文字が試みられたが,1937年以降ロシア文字に統一された。
[宗教]
ソ連では宗教統計が発表されなかったので詳細は不明であるが,最大の宗派は,帝政時代に国教であったロシア正教会である。ロシア正教はロシア人,ウクライナ人,白ロシア人の間だけでなく,モルダビア(モルドバ)人,チュバシ人,ウドムルト人,モルドバ(モルドビン)人,マリ人,コミ人,ヤクート人などの間にも広く普及していた。…
…19世紀中葉以後にはラズノチンツィと呼ばれる知識人層が進出するが,概して帝政ロシアで花開いた文化の担い手は貴族であった。
【宗教】
[教会の役割]
ロシア帝国ではロシア正教会に対して国教的な地位が与えられていた。1897年の国勢調査では全国民の69.4%が正教徒,1.8%が旧教徒staroobryadtsyと諸分派信徒であったが,それは東スラブ系の住民の数にほぼ見合っていた。…
…市民革命と産業革命とによって激動を続ける西ヨーロッパに近代文明の行詰りを認め,その原因がローマ・カトリック教会の理性主義的・論理主義的考え方にあるとみなした。そこで,信仰共同体の回復を目指し,そのための基礎としてロシア正教会の優位を主張した。I.V.キレエフスキーやホミャコーフら初期スラブ主義においては,〈正教〉の救済的役割に重点が置かれていた。…
※「ロシア正教会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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