黒田庄(読み)くろだのしよう

日本歴史地名大系 「黒田庄」の解説

黒田庄
くろだのしよう

現名張市域(名張盆地)の大半を占める大きな古代・中世荘園。黒田本庄・出作・新庄からなる。奈良時代に隣国大和国山辺やまべ郡の笠間かさま川西方の山地に設定された、東大寺領板蠅いたばえ杣を淵源とする。

〔本庄の成立過程〕

康保元年(九六四)より十数年前、東大寺別当光智は大仏殿の角木をとるため板蠅杣に入り、名張川と笠間川の合流点に角木を引出し泉木津いずみきづ(現京都府相楽郡木津町)に送ったが、そのついでに使者を放って、薦生こもお牧東南の「字桜瀬南頭」に示を打ち、板蠅杣の東の境は名張川であると称したという。この示によって薦生牧や焼原やきはら杣など名張川西岸の地域が板蠅杣の四至内に囲込まれたが、その時にはだれも東大寺と争う人は出てこなかった(康保三年四月二日「伊賀国夏見郷刀禰等勘申案」東大寺文書)。康保元年に至り、転経院僧都延珍より譲与を受けた(応和二年八月二〇日「転経院司牧地新開田等去状案」同文書)、勘解由長官藤原朝成が薦生牧を自分の所領として立券しようとしたところ、東大寺の妨げを受けた。そこで朝成は、記使四世清忠王を派遣して大和国山辺郡都介つげ(現奈良県都村)の刀禰らに康保元年九月二五日付大和山辺郡都介郷刀禰等解案(同文書)などを書かせ、それを槓杆に東大寺および名張郡司と交渉し、同年一一月ようやく薦生牧を朝成領として立券することができた(同年一一月二三日「名張郡夏見郷薦生村刀禰等解案」同文書)。そして同三年には薦生村刀禰・夏見なつみ郷刀禰らが薦生牧と板蠅杣の四至について勘申するに至る(前掲勘申案)

それによると、(一)元来板蠅杣は笠間川の西方、焼原杣は笠間川の東方にあり、薦生牧は名張川の箕輪(湾曲部)内にあるので、それぞれ相分れていることは顕然である、(二)薦生牧の南の四至となっている高峯(茶臼山)には寺神領田畠・私人領地公田が多く、大屋戸おやど夏焼なつやけ(夏秋)などと号しているが、これは東大寺領ではない、(三)焼原杣は薦生牧の南の四至たる高峯を越えて数里のところにある山だが、光智が板蠅杣四至内に繰入れた。つまり薦生牧は清忠王の努力によって藤原朝成所領として確保されたが、焼原杣などは板蠅杣内に囲込まれてしまったわけである。この時点での板蠅杣四至は「東限河 南限斎宮上路」とのみあって、「東限名張河」と記してある公験は存在しなかったとみられる。長保元年(九九九)に至っても、時の東大寺別当平崇は「名張郡板蠅杣内薦生村御領薦生御牧」とまで記しながら、公験は勅封倉・綱封倉にあるのでたやすく取出しがたいと称し、薦生牧が東大寺領ではないことを認めざるをえなかった(同年六月二一日「東大寺別当平崇書状案」同文書)


黒田庄
くろだのしよう

加古川上流域の両岸、現黒田庄町全域と西脇市蒲江こもえに比定される。「和名抄」にみえる黒田郷内に成立した庄園で、黒田・大志野おおしのに分れていた。石原の得笠いしはらのとくりゆう寺跡から出土した法華経奥書(西光寺蔵)には承安四年(一一七四)九月一五日付で黒田庄名がみえる。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)には宇治平等院領黒田庄がみえ、摂津住吉社造営のため紙一五帖、大豆・白米各二斗などを負担している。嘉元三年(一三〇五)四月頃とされる摂渡庄目録(九条家文書、以下断りのないものは同文書)にも平等院領黒田庄がみえ、年貢は三〇〇石、ほかに檜皮と檜榑を負担。


黒田庄
くろだのしよう

南北朝期から戦国時代の庄園。行橋平野の西部、現大字黒田を中心とした一帯に比定される。観応二年(一三五一)一一月二日の足利尊氏袖判下文(大友文書/南北朝遺文(九州編)三)によると、少弐頼尚の知行地であった黒田庄は頼尚が尊氏に反した足利直冬側に立ったため没収され、大友氏泰に与えられている。文和三年(一三五四)には氏泰の弟氏時に安堵されている(同年二月一二日「仁木頼章施行状」同上)。明応七年(一四九八)に豊前へ進入した大友親治は文亀元年(一五〇一)田原千代若丸に京都郡内の「黒田之内」二〇町ほかを預け置いている(五月二八日「大友親治知行預ケ状」田原文書/大分県史料一〇)


黒田庄
くろだのしよう

黒田辺りか。後堀河天皇第一皇女室町院領。弘安六年(一二八三)一〇月九日、安嘉門院五七修法の用途二貫五〇〇文が課せられている(勘仲記)。元弘三年(一三三三)六月後伏見上皇の管轄下に置かれ(園太暦)、応永二五年(一四一八)以降は伏見宮領として「看聞御記」に散見する。当庄南方については、応永二年九月前大納言大宮実尚より相国しようこく(現京都市上京区)へ寄進された。これは領家職か。以後伏見院聖忌法事用途にあてる黒田庄役は、相国寺の塔頭常徳じようとく院の沙汰により伏見宮家へ納められたが、応永末年には「近年黒田庄役減少」、あるいは「毎度難渋」となりはじめ、嘉吉元年(一四四一)を最後の記録とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田庄」の意味・わかりやすい解説

黒田庄
くろだしょう

兵庫県中南部、多可郡(たかぐん)にあった旧町名(黒田庄町(ちょう))。現在は西脇(にしわき)市の北部を占める一地区。旧黒田庄町は1960年(昭和35)町制施行、2005年(平成17)西脇市に合併。地域の中央を加古(かこ)川が貫流し、東岸をJR加古川線、西岸を国道175号が走る。集落は両岸にあり水田が開ける。『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の黒田の里で「土の黒きをもちて名を為(な)す」とある。中世は平等院(びょうどういん)領の荘園(しょうえん)黒田庄であった。名産の播州毛鉤は伝統的工芸品に指定されている。播州織(ばんしゅうおり)は伝統的産業。黒田庄和牛をはじめ農業が盛ん。拝殿が県の重要文化財に指定されている兵主(ひょうず)神社、周辺が自然環境保全林となっている荘厳(しょうごん)寺などがある。

[二木敏篤]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒田庄」の意味・わかりやすい解説

黒田庄
くろだしょう

兵庫県中部,西脇市北部の旧町域。加古川中流域にある。 1960年町制。 2005年西脇市と合体。地名は中世以来の呼称による。丹波山地の高原台地が大部分を占め,加古川沿いに集落と耕地が集中。播州先染織の生産地の一つで,織物業が盛ん。ほかに釣り針を特産。農村部では酒米,シイタケを産し,和牛飼育が行なわれる。

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百科事典マイペディア 「黒田庄」の意味・わかりやすい解説

黒田庄[町]【くろだしょう】

兵庫県中部,多可郡の旧町。加古川支流の佐治川と篠山(ささやま)川の合流点にあり,加古川線が通じる。播州織物の本場西脇市に近く,中小織物工場が多数ある。シイタケ栽培,畜産も行う。2005年10月西脇市へ編入。35.34km2。8163人(2003)。

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改訂新版 世界大百科事典 「黒田庄」の意味・わかりやすい解説

黒田庄 (くろだしょう)

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事典・日本の観光資源 「黒田庄」の解説

黒田庄

(三重県名張市)
伊賀のたからもの100選」指定の観光名所。

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