埼玉県さいたま市緑区大間木(おおまぎ)から下山口新田(しもやまぐちしんでん)にかけて所在するわが国最古の閘門(こうもん)式運河。1728年(享保13)井沢弥惣兵衛為永(やそべえためなが)は幕府の命を受けて、灌漑(かんがい)用水路である見沼代用水を開削した。この用水はさいたま市大間木の付島(つきしま)から川口市神根(かみね)を結ぶ八丁堤の北側で、東縁用水(ひがしべりようすい)と西縁用水が約1キロメートルに接近し、真ん中に芝川が流れている。為永は代用水を利用して、沿岸の村々と江戸を結ぶ舟運を計画し、1731年に東・西縁用水と芝川を結ぶ通船用の水路を開削した。通船堀は東縁側で約390メートル、西縁側で約650メートルあるが、両用水と芝川との水位差が3メートルあったため、東と西の通船堀に各2か所ずつの閘門を設けて水位を調整し、船を上下させた。通船堀の使用期間は、灌漑用水不用の毎年12月から2月ごろまでで、船は大きいので長さ14メートル、幅2メートル余あり、米約200俵を積んだという。下り荷は米、麦、野菜、薪(たきぎ)、木材、漬物、樽柿(たるがき)、みそ、酒など、上り荷は豆粕(まめかす)、菜種粕(なたねかす)、干鰯(ほしか)、下肥(しもごえ)、塩、魚、しょうゆ、荒物などであった。通船差配役は為永に協力した江戸商人高田茂右衛門(もえもん)と鈴木文平が任命され、以後両家の管理下に置かれた。1874年(明治7)に見沼通船会社が設立され盛況を呈したが、1883年日本鉄道会社線(上野―熊谷間)、1885年東北本線開通と、大正期の貨物自動車の普及により衰退し、1931年(昭和6)2月に廃止された。1982年7月、貴重な産業遺構として国の史跡に指定された。さいたま市立浦和博物館(さいたま市緑区)に通船堀の模型が展示されている。
[大村 進]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…その管理は四川奉行(しせんぶぎよう),四川用水方普請役が担当した。【大谷 貞夫】
[見沼通船堀]
見沼代用水路開削後,井沢弥惣兵衛の手付鈴木文平とその実兄紀州和歌山元郷士高田茂右衛門の両人は,代用水路への通船御免の願書を幕府に提出し,1731年5月,老中松平乗邑(のりさと)の許可を得て見沼通船事業に着手した。両人は同年,代用水路と中悪水路(芝川)とを結ぶ見沼通船堀(横堀ともいう)を構築して須戸橋(現,行田市地内)―柴山伏越(南埼玉郡菖蒲町)―見沼通船堀(浦和市大間木)―芝川―荒川―江戸市中永代橋筋・神田川筋を結ぶ舟運路を開設した。…
※「見沼通船堀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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